東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

1から始めると失敗する〜ゼロから始めなければならない根本的理由〜

2024-11-16 14:38:30 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
 近頃、ゼロからの出発、再出発ということの大事性、その意義ようやくに実感することが出来てきた、と思える。

 昔々に師から、「何事かを学ぶ、あるいは学び直す場合に、よく1からの出発でなければならないと言われる。しかしながら、それは壮大なる誤解である。

 なぜなら、最初は何もないはずなのに、諸君は1があるとしてしまうから、まともな学び、上達ができないのである。

 そうではなくて、大事なことはゼロからの出発、再出発でなければならないということである。

 そうでなければ、何事もまともにはなっていかない、まともな上達はない。」と説いていただいたことがある。

 当時の自身のアタマには「?」「1からとゼロからとどう違うのか?」「1から始めるということもゼロから始めるということも、最初からということで、全く同じことを言われているのではないのか ?」「0と1の違いとは一体何なのだ ?」等々の思いが渦巻いてはいたものの、結局、わからないままに、わかったつもりになって「ようは何事も最初から、原点からやれということだ!」として終わってしまっていた。

 しかしながらそれは、やはり壮大なる勘違いである、あったと今にして思う。

 どういうことかといえば、例えば空手で考えるならば、若くて十分な体力 = 人間体がある場合は、1である、その場突き蹴りから始めれば良い、始めて良かった。

 しかしながら、体力の不足する者、例えば高齢者や女性が空手を始めるとして、1である、その場突き蹴りから出来るであろうか?柔軟性、筋力、骨力等々、それなりの人間体を先ず何とか創ってやらなければ、まともには、その場突き蹴りの形すら取れないはずである。

 つまり、1から始めたのではだめで、ゼロから、何もないものとして、まずは人間体から創っていかねばならないはずである。

 また、例えば、パン作り等の料理であれば、いくら丁寧に配合を測り、丁寧に混ぜてしっかりと発酵させて舶来のオープンで焼いても、肝心の粉やサワー種、塩が悪いものであれば、決して美味しいものとはなっていかない。いくら形を変えても、その実体は、原材料の小麦粉や水、塩等々であるのだから。

 料理はまず素材選び、と言われるのはこういうことである。

 これは、自身の専門である手技施術についても全く同じことである。

 食や運動・姿勢、睡眠等の基本的な人間体の整えなくしては、例えば、グルメ三昧、3時間睡眠、テレビの前に座ったきり、どころか寝転んでテレビを見る。というような生活を送っているとなれば、ほぐしてもほぐしても、肩こりや腰痛等の不調は治ってはいかない。(特に40代以降ともなれば......)

 それに対して、確かに事実レベルではそうかもしれないが、では、なぜそうなのか?という反論もあるかもしれない。

 それに対しては、端的には、森羅万象すべての大元の「モノ」の性質がそうであるからと言える、と思う。

 そもそも、と大上段に振りかぶれば、この世界は「モノ」の変化・運動したものである。あるものが変化し、運動して別のものになり、その別のものがまた変化し、運動して、そのまた別のものになる......。この「モノ」の、無限の過去から無限の未来への、永遠の変化運動が、この世界・宇宙の実体・実態である。

 それゆえに、あるものの誕生( = 原点)は同時に、それ以前の段階の消滅である。というのが唯物論の立場の世界観である。

 それゆえの、「何事も1からではだめでありゼロから(=1になっていくものから)のスタートでなければ、まともにはなっていかない。」ということである。

 それが、「1から始めるのはダメで、ゼロから始めなければならない」ということの根本的理由である。

 では、観念論の立場ではどうなるのであろうか?ということが当然に問題とされよう。

 端的には、観念論の場合は最初から観念なるものがあって、そこから全てが始まるのだから、観念というものの誕生は考えなくても良いという前提なのであるから、1からで良いということになる。


 


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