『ナースが視る病気』(薄井坦子著 講談社)を読んだ。鍼灸を学ぶものにとっての陰陽論(と五行説、そして陰陽五行論……ではあるが、そこまで論じると複雑になり過ぎるので、まずは……)の意義、その学びの大事性痛感される。
前期末試験での「臨床医学各論」の不出来の真因は、「病気の一般論」という像をしっかりと持っての「鍼灸過去問集」の学びでなかったからとの思いから、このお盆休みを利用して『ナースが視る病気』に学んで、まずはアバウトにでも「病気の一般論」の像を描いておこうと読み始めた。
『ナースが視る病気』を読み出して驚かされたことには、自身の予想に反してそこにまず説かれてあることは「解剖と生理」であり、そこにあったのは『ナースが視る人体』(薄井坦子著 講談社)で見慣れた「図版」であった。そこではまず、人間の正常な解剖・生理が説かれ、それがどのように歪んで、歪まされていって病気にまでなっていくのか、そして正常な解剖・生理が歪んでしまった病気とはどのようなものなのかが説かれ、その上でその歪んでいってしまった状態・病気を回復させていくには、どのような関わり、生活調整を為さねばならないのかが、説かれてあった。
これは『ナースが視る人体』が、人間の解剖・生理を主に、その正常なあり方を理解するために異常=病気についても説かれてあったのと、丁度、逆のこと、つまり病気=異常を理解する(させる?)ために、まずアバウトに正常な解剖・生理を説いて、それが歪んでいったものとして病気が説かれてあるのだと思えた。
そう思えると、同様のことが『看護の生理学(1〜3)』(薄井坦子 瀬江千史著 現代社白鳳選書)で、「人間の身体のしくみ」として解剖と生理が解剖を主にして生理とともに説かれ、「人間の身体のはたらき」として生理と解剖が生理を主にして解剖とともに説かれていたということが、また、『育児の認識学 こどものアタマとココロのはたらきをみつめて』(海保静子著 現代社)で、「認識の問題を説くには実体から、実体の問題を説くには認識から……」(自身の記憶で書いているので正確ではないが……)と海保先生が説いてくださっていたことが想起された。
これらは要するに弁証法でいうところの「対立物の統一」として説(解)くということに他ならず、物事を説(解)くのに、「対立物の統一」として説(解)くということが対象の構造を説(解)くのに必須のことであり、そのことが対象の構造を見事に浮き彫りにしてくれるということなのだ、と思える。
以上のように考えることができると、鍼灸・東洋医学における「陰陽論」の学びの大事性に思いが至る。現在の鍼灸学校における陰陽論は、その扱いは単なる古代の鍼灸・東洋医学を誕生させた人々の発想法として、良くいえば鍼灸師の一般教養として、あるいは鍼灸国家試験のためのものとしての扱いしか受けていないが、ここは本来ならば古代の鍼灸・東洋医学を誕生させた人々が成したであろうごとくに、森羅万象のすべてを陰陽論で捉え返していくことで、自身のアタマの働きそのものを陰陽論として技化してくことでなければならないと思う。(これは五行説・陰陽五行論についてもである。ここは、以前にも少し触れたが、鍼灸学校の総括として国試後に鍼灸・東洋医学についてしっかりと説いてみる予定であるので、その折に……)
前期末試験での「臨床医学各論」の不出来の真因は、「病気の一般論」という像をしっかりと持っての「鍼灸過去問集」の学びでなかったからとの思いから、このお盆休みを利用して『ナースが視る病気』に学んで、まずはアバウトにでも「病気の一般論」の像を描いておこうと読み始めた。
『ナースが視る病気』を読み出して驚かされたことには、自身の予想に反してそこにまず説かれてあることは「解剖と生理」であり、そこにあったのは『ナースが視る人体』(薄井坦子著 講談社)で見慣れた「図版」であった。そこではまず、人間の正常な解剖・生理が説かれ、それがどのように歪んで、歪まされていって病気にまでなっていくのか、そして正常な解剖・生理が歪んでしまった病気とはどのようなものなのかが説かれ、その上でその歪んでいってしまった状態・病気を回復させていくには、どのような関わり、生活調整を為さねばならないのかが、説かれてあった。
これは『ナースが視る人体』が、人間の解剖・生理を主に、その正常なあり方を理解するために異常=病気についても説かれてあったのと、丁度、逆のこと、つまり病気=異常を理解する(させる?)ために、まずアバウトに正常な解剖・生理を説いて、それが歪んでいったものとして病気が説かれてあるのだと思えた。
そう思えると、同様のことが『看護の生理学(1〜3)』(薄井坦子 瀬江千史著 現代社白鳳選書)で、「人間の身体のしくみ」として解剖と生理が解剖を主にして生理とともに説かれ、「人間の身体のはたらき」として生理と解剖が生理を主にして解剖とともに説かれていたということが、また、『育児の認識学 こどものアタマとココロのはたらきをみつめて』(海保静子著 現代社)で、「認識の問題を説くには実体から、実体の問題を説くには認識から……」(自身の記憶で書いているので正確ではないが……)と海保先生が説いてくださっていたことが想起された。
これらは要するに弁証法でいうところの「対立物の統一」として説(解)くということに他ならず、物事を説(解)くのに、「対立物の統一」として説(解)くということが対象の構造を説(解)くのに必須のことであり、そのことが対象の構造を見事に浮き彫りにしてくれるということなのだ、と思える。
以上のように考えることができると、鍼灸・東洋医学における「陰陽論」の学びの大事性に思いが至る。現在の鍼灸学校における陰陽論は、その扱いは単なる古代の鍼灸・東洋医学を誕生させた人々の発想法として、良くいえば鍼灸師の一般教養として、あるいは鍼灸国家試験のためのものとしての扱いしか受けていないが、ここは本来ならば古代の鍼灸・東洋医学を誕生させた人々が成したであろうごとくに、森羅万象のすべてを陰陽論で捉え返していくことで、自身のアタマの働きそのものを陰陽論として技化してくことでなければならないと思う。(これは五行説・陰陽五行論についてもである。ここは、以前にも少し触れたが、鍼灸学校の総括として国試後に鍼灸・東洋医学についてしっかりと説いてみる予定であるので、その折に……)