『実験医学序説』(クロード・ベルナール著 三浦岱栄訳 岩波文庫)を読み返している。実験の大事性=事実の大事性痛感される。
『からだの知恵』(W.B.キャノン著 講談社学術文庫)を読み返すなかで、キャノンの原点はクロード・ベルナールであるとの思いとなって、『実験医学序説』からも何らかの示唆が得られるのでは無いかとの思いとなって、読み返しはじめた。
そこには、交感神経うんぬん以上に大事なことが説かれていると思える。端的には、実験の大事性=事実の大事性である。
「もしも推理の基礎となる事実が、不正確に定められたり、または誤っていたりしたならば、全部が崩壊し、全部が偽りとなるであろう。科学的学説における誤謬は、実にしばしば事実の誤りに起因していることが見出されるのは、このためである。」
「しかしながら、病院、階段講堂、実験室、時には臭気紛々たる場所、胸をさわがさせるような場所で親しく自ら実験を行い、艱難辛苦をなめるのでなかったならば、どうして生命現象に関する真に有望にして光明ある一般論に達することができるであろうか。ある人がどこかでいった如く、科学は、険阻なる坂道をよじ登り、木苺(木苺はバラ科の植物であり棘がある……ブログ筆者)や茨の間を横切って足の皮をすりむいた後に始めて到達することのできる、百花咲き乱れ、芳香に満ちあふれた高原に比すべきである。もし生命の科学において、私の心境にふさわしい比喩を与えてほしいというならば、これは、長いよごれた調理場を通ることによってはじめて到達することのできる光輝さんらんたる客間であるといおう。」
とクロード・ベルナールは、わたしたちに語りかけてくれている。今回の自身の卒業研究まともなものになっていかなかったのは、また、いくつかの先行研究なるものを再検討してみた結果、中身は何も無いとあきれてしまったのも、要するにそういうことなのだと……。
また、
「私が医学に対する実験的方法の紹介を云々するのは、ただそれによって人心を一つの目的の方向に導いて行きたいからである。その目的というのは、科学が本能的に知らずしらずに追求しているのであるが、もしも一度明瞭にこれを認めるに至ったならば、一層速やかに、また一層確実にこれに到達することができる目的なのである。その他のことはやがて時代が為してくれるであろう。おそらく我々は、我々の生きている間に、科学的医学の開花を見ることはあるまい。しかしこれがまさに人類の運命である。種をまき、科学の畑を労苦してたがやす人は、収穫を集めるように定められている人ではない。」
とも、説いていただいている。この一文を読むと、「実力不足ながらも科学的鍼灸論の確立に向けての努力を!」との熱き思いとなって……。
『からだの知恵』(W.B.キャノン著 講談社学術文庫)を読み返すなかで、キャノンの原点はクロード・ベルナールであるとの思いとなって、『実験医学序説』からも何らかの示唆が得られるのでは無いかとの思いとなって、読み返しはじめた。
そこには、交感神経うんぬん以上に大事なことが説かれていると思える。端的には、実験の大事性=事実の大事性である。
「もしも推理の基礎となる事実が、不正確に定められたり、または誤っていたりしたならば、全部が崩壊し、全部が偽りとなるであろう。科学的学説における誤謬は、実にしばしば事実の誤りに起因していることが見出されるのは、このためである。」
「しかしながら、病院、階段講堂、実験室、時には臭気紛々たる場所、胸をさわがさせるような場所で親しく自ら実験を行い、艱難辛苦をなめるのでなかったならば、どうして生命現象に関する真に有望にして光明ある一般論に達することができるであろうか。ある人がどこかでいった如く、科学は、険阻なる坂道をよじ登り、木苺(木苺はバラ科の植物であり棘がある……ブログ筆者)や茨の間を横切って足の皮をすりむいた後に始めて到達することのできる、百花咲き乱れ、芳香に満ちあふれた高原に比すべきである。もし生命の科学において、私の心境にふさわしい比喩を与えてほしいというならば、これは、長いよごれた調理場を通ることによってはじめて到達することのできる光輝さんらんたる客間であるといおう。」
とクロード・ベルナールは、わたしたちに語りかけてくれている。今回の自身の卒業研究まともなものになっていかなかったのは、また、いくつかの先行研究なるものを再検討してみた結果、中身は何も無いとあきれてしまったのも、要するにそういうことなのだと……。
また、
「私が医学に対する実験的方法の紹介を云々するのは、ただそれによって人心を一つの目的の方向に導いて行きたいからである。その目的というのは、科学が本能的に知らずしらずに追求しているのであるが、もしも一度明瞭にこれを認めるに至ったならば、一層速やかに、また一層確実にこれに到達することができる目的なのである。その他のことはやがて時代が為してくれるであろう。おそらく我々は、我々の生きている間に、科学的医学の開花を見ることはあるまい。しかしこれがまさに人類の運命である。種をまき、科学の畑を労苦してたがやす人は、収穫を集めるように定められている人ではない。」
とも、説いていただいている。この一文を読むと、「実力不足ながらも科学的鍼灸論の確立に向けての努力を!」との熱き思いとなって……。