東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

経穴暗唱の弁証法性~目的意識的な実践は対象の構造に分入らせる~

2015-11-16 18:23:18 | 日記
車の運転の時間を利用して、経穴の暗唱行った。目的意識的な実践の大事性痛感した。

昨日、岐阜への車移動の時間(往2時間半、復3時間)を利用して、足の太陽膀胱経(67穴)の暗唱行った。往路は、タッチの替え歌で、復路は、学校の暗唱テストの形式で行った。

昨日の車の往復時間で、完璧に覚える(量質転化させる)つもりで、かつ<否定の否定>の事実を持つ実践、実験という認識で行った。

結果として、足の太陽膀胱経をしっかりと覚えられる(量質転化)と共に、<否定の否定>の構造として、第一の否定の構造、第一の否定と第二の否定の連関(これも構造である。と思う)が事実を通して実感出来た。

例えば、経穴暗唱の第一の否定としての「経穴のうた」も、替え歌ならばなんでも良いというのでは無く、替え歌によって覚えた経穴名を、今度は再度否定して(第二の否定)暗唱していくのに、替え歌によって暗唱のしやすさの違いがある。これは、「経穴のうた」としての歌い易さ、覚え易さとはまた別の問題である。

これは、<否定の否定>の過程において、第一の否定はただ、あるものを否定すれば良いのではなくて、第二の否定が行える様な否定でなければならない。第二の否定を前提としての否定でなければならないと説かれる。まさにそのものの現実的なあり方だと思う。

これは、単なる経穴名の暗記であっても、そこに目的意識を高く掲げて、対象の発展を図るべく取り組むことで、否応無しに対象の構造に分入ることとなって行く。結果として、対象の構造が少しずつであっても視えてくるということである。と思う。

これが、志を高く掲げることの意義である。と思える。



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