本治、標治を考える古代中国の鍼灸医のアタマの中を視る。
「同じ病の患者に同じ施術をしても、ある患者には劇的に効き、ある患者にはそれほどでも無い。何でだろう?」
「人間は人それぞれに、背の高い低い、力がある力がない、走るのが速い走るのが遅い......と持って生まれた性質があるのだが、病についても同じように病が治りやすい人と病が治りにくい人があるのではないのだろうか?」
「それは人間にあっては、病とは別の何かが病の回復を決めているということではないのだろうか?」
と治療実践の積み重ねで、古代中国の鍼灸医は考えたのでは無いか?
そう考えると、古代中国の世界観からすれば、現実の世界は、皇帝を頂点とする国家体系である国家として存在する諸々の国家の闘争、興亡の現在でありその歴史であるが、その現実世界は、大枠で天帝だとか鬼神だとかの天上界あるいは目に見えない裏の世界が決めている。のであるから、同様のことが個としての人間の身体にも言えるのである。となるのが自然な流れであろう。(天人合一、整体観念)
それ以上に、古代中国の鍼灸医は現在の鍼灸師と違って高級官僚であり、その治療の対象は庶民ではなく、皇帝や貴族、将軍等の支配階級であったから、自身のアタマでも、その治療対象への説明としても、当時の最先端の世界観に従っての説明へとなしていくのは当然の成り行きと言える。
結果として、話はかなり飛ぶが標と本を区別して、となっていったのでは無いか。
それに対して、では経絡治療を誕生させた人々は如何に考えたのか?そのアタマの中はいかなるものか?
(ここはスマホでは無理があるので、改めて説きたいと思う。)