現在、「ぶら下がり運動」を日課として行っている。これは、そもそもが南郷先生が『季刊 綜合看護』の連載『”夢”講義』で「人間体はそもそもがサル体であるから……それは、必要な運動」とその意義を説いてくださっていたからの、そのことを理屈で納得できたからの、その納得できた意義に導かれての日々の実践であり、その継続である。
その結果として、「ぶら下がり運動」の効果を実感できているという現実がある。端的には、「ぶら下がり運動」を継続して行いだしてから、腰の古傷を原因とした諸々の不調をあまり感じなくなっている、体調が整えられているということを実感できている、ということがある。
このことは、自身にとっては南郷先生のご示唆であったから、でありそれを理屈で納得できての実践であったからの、継続が可能であったのであり、成果を実感できている現実だと思える。
何故ならば、南郷先生が「ぶら下がり運動」の必要性、必須性を説かれていると知る以前に、ある柔整師の先生から、「ぶら下がり運動」的な施術を教えていただくことがあり、その先生からは、「効果があるのだ!」と説かれるのみであったから、一月も経たないうちにその運動、施術を行わなくなってしまったということがあったから……。
それだけに、人間にとっての対象の、自身の実践の意義を理屈で捉え返しての実践の大事性を痛感する。そうでなければ、人間というものはその実践を続けれない、のみならず、そもそもがその実践にかかわる認識が中途半端であるのだから、同じようにやったとしても、その成果は天と地ほどの相違となっていくであろうことは、理論的にも明白であるし、実践的にも明白である、と思える。
さて、これから何回かにわたって東洋医学についての自身の学びの総括をしていきたいと思う。これは、今春から鍼灸等の東洋医学に関わる学びを始めるかたの参考になれば、自身のように東洋医学の学びに悩んで迷うことの無いように少しでもその導きの灯火となれば、との思いからでもある。
内容としては、鍼灸学校の教科書である『新版 東洋医学概論』(医道の日本社)に説かれる項目のいくつかを取り上げて、その意義を説いていければと思っている。理由は、端的には「東洋医術」である鍼灸(や漢方)の学びの大元になる、なるべきなのが「東洋医学」でるからであり、それとともに、通常の、現代の日本人にとって、『新版 東洋医学概論』で説かれる「東洋医学」というものは、文字としては分かることができても、その意味、意義はなかなかに分からない、納得しがたいものであるだけに、結果として中途半端な認識での学びとなっていってしまって、知識として学んで終わりとなってしまう可能性が大きい、それ以前に知識としてすら学び得ないで投げ出してしまうことにもなりかねない、からでもある。(一言で言えば、「意志はそのものの内に理論的なものを含む」(ヘーゲル)からである。)
次回から、まずは、「陰陽・五行論」について説いていきたいと思う。
その結果として、「ぶら下がり運動」の効果を実感できているという現実がある。端的には、「ぶら下がり運動」を継続して行いだしてから、腰の古傷を原因とした諸々の不調をあまり感じなくなっている、体調が整えられているということを実感できている、ということがある。
このことは、自身にとっては南郷先生のご示唆であったから、でありそれを理屈で納得できての実践であったからの、継続が可能であったのであり、成果を実感できている現実だと思える。
何故ならば、南郷先生が「ぶら下がり運動」の必要性、必須性を説かれていると知る以前に、ある柔整師の先生から、「ぶら下がり運動」的な施術を教えていただくことがあり、その先生からは、「効果があるのだ!」と説かれるのみであったから、一月も経たないうちにその運動、施術を行わなくなってしまったということがあったから……。
それだけに、人間にとっての対象の、自身の実践の意義を理屈で捉え返しての実践の大事性を痛感する。そうでなければ、人間というものはその実践を続けれない、のみならず、そもそもがその実践にかかわる認識が中途半端であるのだから、同じようにやったとしても、その成果は天と地ほどの相違となっていくであろうことは、理論的にも明白であるし、実践的にも明白である、と思える。
さて、これから何回かにわたって東洋医学についての自身の学びの総括をしていきたいと思う。これは、今春から鍼灸等の東洋医学に関わる学びを始めるかたの参考になれば、自身のように東洋医学の学びに悩んで迷うことの無いように少しでもその導きの灯火となれば、との思いからでもある。
内容としては、鍼灸学校の教科書である『新版 東洋医学概論』(医道の日本社)に説かれる項目のいくつかを取り上げて、その意義を説いていければと思っている。理由は、端的には「東洋医術」である鍼灸(や漢方)の学びの大元になる、なるべきなのが「東洋医学」でるからであり、それとともに、通常の、現代の日本人にとって、『新版 東洋医学概論』で説かれる「東洋医学」というものは、文字としては分かることができても、その意味、意義はなかなかに分からない、納得しがたいものであるだけに、結果として中途半端な認識での学びとなっていってしまって、知識として学んで終わりとなってしまう可能性が大きい、それ以前に知識としてすら学び得ないで投げ出してしまうことにもなりかねない、からでもある。(一言で言えば、「意志はそのものの内に理論的なものを含む」(ヘーゲル)からである。)
次回から、まずは、「陰陽・五行論」について説いていきたいと思う。