『G.W.F.ヘーゲル 美学講義』(寄川条路 監訳 法政大学出版局......以降、『美学講義』と略して表記する)を読み始めた。一般論(とそれに見合う事実)を持っての学びの大事性、必須性、痛感する。
今春より、数年ぶりに絵を描くことを始める予定(昨日、近隣のクロッキー会に参加した)であった、のでこの機会にヘーゲルの「美学」に再挑戦することにした。
ヘーゲルの「美学」は、岩波のヘーゲル全集では、30冊(であったと記憶している)の大部のものである。
その量の膨大さと、それ以上にその説かれることの難解さに、何度か挑戦したものの、歯が立たず転戦(実質は退却?)を繰り返して、数ページもまともに読み続けていけない、ものであった。
にも関わらずの、今回、「なんとしてもヘーゲルを分かりたい、それが南郷先生の武道哲学を分かっていくための道でもある」との思いから、「それには、自身でそれなりの事実をしっかりと持っている(持っていた?)と思える、絵=芸術に関わる著作である「美学」の学びが最善の方法であろう」との思いへとなっていっての、今春からの絵の実践に合わせての、「『美学講義』を読む」であった。
ついでに言えば、これまでに出版されているヘーゲルの「美学」は、岩波書店のものを含めて、ヘーゲル自身の手によるものではなく、他人の手によって編纂され、体系化されたものであったが、法政大学出版局によって、ヘーゲルの「美学」の講義録そのままの書、『美学講義』が出版されている、ということも「難解極まる」と思えるヘーゲルの「美学」に再度の挑戦をとなっていった理由の一つでもある。
さて、実際にヘーゲルの『美学講義』を読み出しての、率直な感想は、「難しい!」に尽きる。「当時のドイツの大学生は、よくもこんな難解な講義に学んだものだ!」とその実力に感心させられた。
しかしながら、今回は、これまでの、「文字だけを読んでいる=一向にイメージの湧かない」状態の難行苦行レベルの読書と違って、難しいながらも、なんとなくではあるが、「こんな事をいっているのでは?」とか、「さすがヘーゲル!」とか「ここは難しいなあ」とかの、思い=イメージを持っての、読んでいくことが出来ている、と思える。
それは何故か?と考えてみると、それは一重に、南郷先生の著作でヘーゲルについて、「絶対精神の自己運動として説かれている」ということを学び得たから、と思える。
別言すれば、ヘーゲル哲学とはこういうものとの一般論を持っての、である(もちろん、ヘーゲルの説く対象に関わっての、生の事実を充分に持っているということも、である)から、と一般論を持つことの大事性、実感された。
今春より、数年ぶりに絵を描くことを始める予定(昨日、近隣のクロッキー会に参加した)であった、のでこの機会にヘーゲルの「美学」に再挑戦することにした。
ヘーゲルの「美学」は、岩波のヘーゲル全集では、30冊(であったと記憶している)の大部のものである。
その量の膨大さと、それ以上にその説かれることの難解さに、何度か挑戦したものの、歯が立たず転戦(実質は退却?)を繰り返して、数ページもまともに読み続けていけない、ものであった。
にも関わらずの、今回、「なんとしてもヘーゲルを分かりたい、それが南郷先生の武道哲学を分かっていくための道でもある」との思いから、「それには、自身でそれなりの事実をしっかりと持っている(持っていた?)と思える、絵=芸術に関わる著作である「美学」の学びが最善の方法であろう」との思いへとなっていっての、今春からの絵の実践に合わせての、「『美学講義』を読む」であった。
ついでに言えば、これまでに出版されているヘーゲルの「美学」は、岩波書店のものを含めて、ヘーゲル自身の手によるものではなく、他人の手によって編纂され、体系化されたものであったが、法政大学出版局によって、ヘーゲルの「美学」の講義録そのままの書、『美学講義』が出版されている、ということも「難解極まる」と思えるヘーゲルの「美学」に再度の挑戦をとなっていった理由の一つでもある。
さて、実際にヘーゲルの『美学講義』を読み出しての、率直な感想は、「難しい!」に尽きる。「当時のドイツの大学生は、よくもこんな難解な講義に学んだものだ!」とその実力に感心させられた。
しかしながら、今回は、これまでの、「文字だけを読んでいる=一向にイメージの湧かない」状態の難行苦行レベルの読書と違って、難しいながらも、なんとなくではあるが、「こんな事をいっているのでは?」とか、「さすがヘーゲル!」とか「ここは難しいなあ」とかの、思い=イメージを持っての、読んでいくことが出来ている、と思える。
それは何故か?と考えてみると、それは一重に、南郷先生の著作でヘーゲルについて、「絶対精神の自己運動として説かれている」ということを学び得たから、と思える。
別言すれば、ヘーゲル哲学とはこういうものとの一般論を持っての、である(もちろん、ヘーゲルの説く対象に関わっての、生の事実を充分に持っているということも、である)から、と一般論を持つことの大事性、実感された。
【これは、もう少し自身の事実を上げて説くべきと思う。
分かった!分かった!役に立った!だけでは、読む方は何のことかさっぱり、で煙に巻かれた気分だけが......と思う。
続編をぜひ!】