コメント、レスコメントは10秒以内に、将来的には瞬時に答えて、と思う。
旧弁証法 = 討論の学びの場としてというのが当初からの、そして現在に至るまでの本ブログの裏のテーマである。
それゆえに、コメントいただくことは大変嬉しくもあり、かつ緊張して身構えるものでもあるが、コメント欄のやり取りが討論から闘論へとなっていってくれる、なして行けることを心から願っている。
では、何故に承認制としてコメントを選別するのか ?答えるに値しないとする。コメントはカットしていこうとするのか ?
それは、本題から外れてしまっているものや、単なる知識の羅列や罵詈雑言であるコメントは、論ずるに値しない = そのようなコメント筆者の頭との相互浸透は、決して自身のレベルを上げてくれるものではない、と思えるからである。
(これについては、自身のレベルの低さからの、とも思えなくもないので、いずれは......とも考えている。)
さて、冒頭の「コメント、レスコメントは、10秒以内に」ということ。これは南郷先生がどこかで、禅問答に関わって、「相手の問いに対して即座に答える。あるいは反問を出す。いうことは、素晴らしくアタマの働きを作ってくれる。」と説かれていた、と記憶しているが、そのことの実践として、コメント欄のやり取り(と共に自身の過去記事を使っての伏龍との討論)は行いたい、との思いのがある。
それに関して、想起されるのが、デカルトの時代の問答法というものである。
A と問われれば B と答える。それに対して B’と問われれば C と答える。あるいは A と問われれば D と反問する。......等々の討論の形式(形骸化)の問題である。
それは確かに、討論・議論には(お互いのレベルが低い間は)勝てるかもしれないが、それとても、覚えられてしまえば、簡単に反問・反論されてしまうだろうし、何よりも、それでは肝心の議論の深まりが、論じているの対象の構造への分け入りがなされない。別言すれば、自身のアタマの働きが育っていかないことが問題である。と思える。
以上を要するに、コメント欄でのやり取りで、討論をすることは。討論すること自体のアタマのレベルアップと、そのことによってのさらなる対象の構造への分け入りの二重性として、自身では捉えているということである。