MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

(補)旧弁証法・弁証術について〜プラトンからアリストテレスへの精神の歴史の繰り返しを!〜

2024-11-22 08:18:00 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
 昨日は「からすみパスタ」に関わる自身の頭の中の映像を追ってみた。

 これは、「食べたい!」となって、「食べる」という行動をとらせる、その原動力となる「映像」はいかなるものなのか?を知りたい、知っておかねばならない、との思いからのであった。(ここは引き続き深めていきたいと思う。)

 本日の「旧弁証法・弁証術について」は、以前にブログ記事で「弁証法が武技の学びならば、弁証術 = 旧弁証法はそれを背後で支える武道体力、人間体力を培うことである。」と書いていたのだが、ここは現在もう少し具体性を持った映像となっていっているので、書いておきたい。

 さて、弁証術 = 旧弁証法は、武道体力、人間体力を培うこと、というのは、それはそれで正しいと思う。

 では、その具体性は、映像はいかなるものなのか?ということが問われると思う。

 それは、プラトンの「滅ぼし合う対立物の統一」(=集団力としての弁証術)であり、アリストテレスの「思弁」(= 「プラトンの「滅ぼし合う対立物の統一」を、一人で行う実力、その実力を培うこと)ということが「弁証術」であるというのが、現在の弁証術の自身の映像である。

 これは0と1の例えで言えば、弁証法(の学び)は「三浦 = エンゲルス弁証法」なのではあるが、そこから始まっては失敗するのであり、その学びの前に、あるいはその学びとともにの、古代ギリシャの旧弁証法の、弁証術の学びによる「思弁力」を培うことが求められるのだ、ということである。

 ここは、プラトン= 旧弁証法、アリストテレス=弁証術と言ってもいいかもしれない。

【旧弁証法=弁証術の問題は、これ以上アタマの中であれこれ考えても無駄、ここまでイメージができれば、後は実践あるのみ、である。

現在、旧弁証法の問題をいくら論じても、中身の無い知識での、としかなっていかない、と思う。】

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