鍼が効くとは如何なることなのか、と考えると、これまでの鍼灸・東洋医学の理論というものは、部分を部分としてしか見ないから、その部分の持つ意味すらが分からない、分からなかったのだと思える。
昨夜、帰りの電車で「筋・筋膜の繋がり」に着目しての鍼灸治療について考える中で、「鍼(と灸)が効く」ということが分からないのは、分かっていかない(いけない)のは、「人間にとっての治療とは何か」という大きな視点を持っての「鍼が効くとは如何なることなのか」を分かろうとしないから、であるということに気づいた。(と思えたので、早速にブログに書いた)
これにかかわって、『新・頭脳の科学(上・下)』(瀬江千史 菅野幸子著 現代社白鳳選書34)の「第三節 解剖学と生理学は統一して教えなければならない」で説かれることが、(解剖にしても生理にしても、生きて生活する人間の、と捉え返すのでなければ歪なものとなる……ということが)何事を考えるときにも共通の、普遍的な考えかた、ということだとも思えた。
そう考えていくと、鍼灸・東洋医学の問題も鍼灸・東洋医学としてだけ考えるのではダメで、東洋医学も西洋医学もともにそこに含まれるところの「医学の歴史」からの、でなければならないのだと……。
ここでの自身のイメージは、生命体にかかわるあらゆることが(それゆえ人間にかかわるあらゆることが)「生命の歴史」から解ける、でなければ解けない、ということであり、その根源となる考えかたとしての「弁証法」の必要性である。
昨夜、帰りの電車で「筋・筋膜の繋がり」に着目しての鍼灸治療について考える中で、「鍼(と灸)が効く」ということが分からないのは、分かっていかない(いけない)のは、「人間にとっての治療とは何か」という大きな視点を持っての「鍼が効くとは如何なることなのか」を分かろうとしないから、であるということに気づいた。(と思えたので、早速にブログに書いた)
これにかかわって、『新・頭脳の科学(上・下)』(瀬江千史 菅野幸子著 現代社白鳳選書34)の「第三節 解剖学と生理学は統一して教えなければならない」で説かれることが、(解剖にしても生理にしても、生きて生活する人間の、と捉え返すのでなければ歪なものとなる……ということが)何事を考えるときにも共通の、普遍的な考えかた、ということだとも思えた。
そう考えていくと、鍼灸・東洋医学の問題も鍼灸・東洋医学としてだけ考えるのではダメで、東洋医学も西洋医学もともにそこに含まれるところの「医学の歴史」からの、でなければならないのだと……。
ここでの自身のイメージは、生命体にかかわるあらゆることが(それゆえ人間にかかわるあらゆることが)「生命の歴史」から解ける、でなければ解けない、ということであり、その根源となる考えかたとしての「弁証法」の必要性である。