前回に引き続き「陰陽論・五行論」についての補足。
さて、五行論とは何か、と考えるとそれは陰陽論が世界(の運動)の根源の問題=本質についての論であったのに対して、世界(の運動)の構造についての論である、と思える。
それだけに、本来、陰陽論と五行論とは、陰陽・五行論であるべき、と思えるのだが、鍼灸学校では、陰陽論と五行論とは別のものとして平面的に論理のレベルを無視して並べて教えられる、かつ理解されていると思える。(これは、哲学特に論理学の学びが皆無である現状では、仕方のないことなのではあるが......)
それはさておいて、「五行論」について具体的に、医療実践で考えてみたい。人間の生きるということ、病むということ、病んでいくということの大元は、陰陽のバランスとその崩れの問題である、と陰陽論が答を与えてくれて、そうか、陰陽のバランスを整えてやればいいのか!とまずはなったとして、それだけでは不足で、では、人間の健康から病への過程、病から健康への過程はどの様なものなのか、とその過程的な構造が、医療実践においては求められる。
それに答を与えてくれるのが、五行論、つまり世界の生成発展消滅を「生・長・化・収・蔵」=「木・火・土・金・水」として捉え返すところの五行論である。
五行論といえば、世界を「木・火・土・金・水」の五つに分けて見ることである、あるいはそれらの相生と相剋、と鍼灸の世界の常識ではなっているが、そんな形式主義的なことでは無しに、五行論というものの意義を、事物の運動=生成発展成熟衰退消滅=生・長・化・収・蔵と捉えさせてくれるもの、として捉え返して受け継ぐべき、と思える。
何故ならば、五行(論)というもののそもそもの原点が、四季(五季?)というものが農産物を生成発展させる、あるいは四季に合わせて、それに見合った形で農産物が生成発展していく、ということにもあるのだから......と思える。
さて、五行論とは何か、と考えるとそれは陰陽論が世界(の運動)の根源の問題=本質についての論であったのに対して、世界(の運動)の構造についての論である、と思える。
それだけに、本来、陰陽論と五行論とは、陰陽・五行論であるべき、と思えるのだが、鍼灸学校では、陰陽論と五行論とは別のものとして平面的に論理のレベルを無視して並べて教えられる、かつ理解されていると思える。(これは、哲学特に論理学の学びが皆無である現状では、仕方のないことなのではあるが......)
それはさておいて、「五行論」について具体的に、医療実践で考えてみたい。人間の生きるということ、病むということ、病んでいくということの大元は、陰陽のバランスとその崩れの問題である、と陰陽論が答を与えてくれて、そうか、陰陽のバランスを整えてやればいいのか!とまずはなったとして、それだけでは不足で、では、人間の健康から病への過程、病から健康への過程はどの様なものなのか、とその過程的な構造が、医療実践においては求められる。
それに答を与えてくれるのが、五行論、つまり世界の生成発展消滅を「生・長・化・収・蔵」=「木・火・土・金・水」として捉え返すところの五行論である。
五行論といえば、世界を「木・火・土・金・水」の五つに分けて見ることである、あるいはそれらの相生と相剋、と鍼灸の世界の常識ではなっているが、そんな形式主義的なことでは無しに、五行論というものの意義を、事物の運動=生成発展成熟衰退消滅=生・長・化・収・蔵と捉えさせてくれるもの、として捉え返して受け継ぐべき、と思える。
何故ならば、五行(論)というもののそもそもの原点が、四季(五季?)というものが農産物を生成発展させる、あるいは四季に合わせて、それに見合った形で農産物が生成発展していく、ということにもあるのだから......と思える。