人間が認知症になっていくということには二重性がある(あると捉えなければならない)と思える。
『看護の生理学(1〜3)』(薄井坦子 瀬江千史著 現代社白鳳選書)で説かれる「人間の解剖・生理」の究明の方法に学ぶならば、「認知症」というものも、「いのちの歴史」をふまえて、生命体の一般性としての「認知症」と人間の特殊性としての「認知症」の二重性で捉えなければならない、と思う。
まず生命体の一般性としての「認知症」から、生命体の一般性としての「認知症」は、脳細胞の実体としての衰えが直接に脳細胞の機能としての認識の実力の低下、衰えであるものである。と思う。
それに対して、人間の特殊性としての「認知症」とは、認識が認識を衰えさせるということである。より構造的には、これにも二重性があり、認識が実体に働きかけて実体を衰えさせることで認識をを衰えさせるところの、と、認識が認識に働きかけて衰えたがごとくの認識を描かせ続けることでその認識が量質転化していっての、その認識が実体をも衰えさせていっての、相互浸透的・量質転化的に機能としての認識と実体としての脳細胞がともに衰えていくところの、である。要するに、「ボケたくてボケる」ところの「認知症」である。と思う。
この認識と実体の病んでいく過程的な構造は、「喘息」になっていく過程的な構造と論理的には、同似性があると思えるが、「認知症」についても「喘息」についても、上述の、単なる一般論のレベルでは無しに、もう少し、しっかりと具体性を持っての説きかたが出来る……と思えるので、近いうちに改めて、説きたいと思う。
『看護の生理学(1〜3)』(薄井坦子 瀬江千史著 現代社白鳳選書)で説かれる「人間の解剖・生理」の究明の方法に学ぶならば、「認知症」というものも、「いのちの歴史」をふまえて、生命体の一般性としての「認知症」と人間の特殊性としての「認知症」の二重性で捉えなければならない、と思う。
まず生命体の一般性としての「認知症」から、生命体の一般性としての「認知症」は、脳細胞の実体としての衰えが直接に脳細胞の機能としての認識の実力の低下、衰えであるものである。と思う。
それに対して、人間の特殊性としての「認知症」とは、認識が認識を衰えさせるということである。より構造的には、これにも二重性があり、認識が実体に働きかけて実体を衰えさせることで認識をを衰えさせるところの、と、認識が認識に働きかけて衰えたがごとくの認識を描かせ続けることでその認識が量質転化していっての、その認識が実体をも衰えさせていっての、相互浸透的・量質転化的に機能としての認識と実体としての脳細胞がともに衰えていくところの、である。要するに、「ボケたくてボケる」ところの「認知症」である。と思う。
この認識と実体の病んでいく過程的な構造は、「喘息」になっていく過程的な構造と論理的には、同似性があると思えるが、「認知症」についても「喘息」についても、上述の、単なる一般論のレベルでは無しに、もう少し、しっかりと具体性を持っての説きかたが出来る……と思えるので、近いうちに改めて、説きたいと思う。