「六部定位脈診」の問題を考えるには、その原点に立ち返っての生成発展として視ること、弁証法性で視ることが必要である。
「六部定位脈診」というものも誰かが創り出したものであるから、それには始まりがある。
ただ、これにも二重性がある。古代中国において最初に「六部定位脈診」が誕生させられた時と昭和の始めに経絡治療の診断方法として再び誕生させられた時との二重性である。
古代中国においては、当初は患部の脈を診るであったものが、身体のいくつかの決まった部分の脈を診るようになっていって(例えば、人迎脈口診や三分九候診)、そこから手首の脈で全身を診る、「六部定位脈診」へと、という流れである。
一方、昭和の始めの経絡治療の創出においては、『霊枢』や『脈経』といった「古典」の記述からの再措定?としての「六部定位脈診」がある。
それぞれ、「六部定位脈診」が誕生させられた事情は異なる、と思える。
さはさりながら、そこに共通しているものは、すでにしっかりと診断の実力があっての、それぞれの事情によっての「六部定位脈診」の誕生である。
それゆえに、「六部定位脈診」の二重性で論じた、術者における主観と客観との乖離の問題が生じてくるのである、と思える。
「六部定位脈診」というものも誰かが創り出したものであるから、それには始まりがある。
ただ、これにも二重性がある。古代中国において最初に「六部定位脈診」が誕生させられた時と昭和の始めに経絡治療の診断方法として再び誕生させられた時との二重性である。
古代中国においては、当初は患部の脈を診るであったものが、身体のいくつかの決まった部分の脈を診るようになっていって(例えば、人迎脈口診や三分九候診)、そこから手首の脈で全身を診る、「六部定位脈診」へと、という流れである。
一方、昭和の始めの経絡治療の創出においては、『霊枢』や『脈経』といった「古典」の記述からの再措定?としての「六部定位脈診」がある。
それぞれ、「六部定位脈診」が誕生させられた事情は異なる、と思える。
さはさりながら、そこに共通しているものは、すでにしっかりと診断の実力があっての、それぞれの事情によっての「六部定位脈診」の誕生である。
それゆえに、「六部定位脈診」の二重性で論じた、術者における主観と客観との乖離の問題が生じてくるのである、と思える。