できるということの二重性について。弁証法的統一においてとらえることの必要性。
自身の治療において、例えば腰痛に対して施術して、痛みやだるさから跛行してであったものが、正常に歩けるようになった場合に、患者に対して、「一時的にほぐれているだけで、数日で徐々に戻ってしまうだろうから、痛みや違和感が出る前に、また来てくださいね。」ということを常としている。
その時の自身のアタマの中の映像は、歩けるということを二重に見ての、現象と実体の二重性で見ての、である。
より具体的には、傷んでいる実体で、一時的にほぐされることで、いわば無理やりほぐされている状態で、現象としては正常に歩けている状態である。
それゆえに、いずれは現象としても傷んだ状態へとなっていくであろうから、傷んだ状態で正常に歩いている状態から、正常な状態で正常に歩けるようにしていかねば、との思いである。
しかしながら、大抵の場合にそのことは理解されず、である。
これは別の例で言えば、風邪で熱があって、しんどい、怠いといった場合に、解熱剤で熱が下がって楽になれば、風邪が治ったとするようなものである。
確かに風邪のひき始めであれば、そのままに治っていく場合もあるであろうが、大抵の場合には、発熱というレベルまで生理機能の弱まりがあれば、解熱剤で一時的に熱が下がっても、無理をすれば再び発熱、そこからの風をこじらせての、気管支炎、肺炎へとなっていってしまう可能性大であるようなものである。
要するに、病むということにも、現象と実体の二重性があるのだから、それを弁証法的統一において捉え返しての、でなければまともには治療ができない、ということであり、それは素人である患者には分かり難いことであるから、できるということにも二重性があり、今は形の上でできているだけだから、との丁寧な説明が必要なのだということ、である。