「古典ギリシャ語」について、その学びの二重の意義。
「古典ギリシャ語」とは、紀元前5世紀頃のアッティカ方言、つまり古代ギリシャ文化の中心地であったアテネで使われていた言語である。それゆえ、古代ギリシャ哲学の原典を学ぶのには必須のものであるとされる。
その「古典ギリシャ語」の学びの機会が持てそうである。そこで、改めてその学びの意義について考えてみた。一般的には、言語は認識と直接的同一性を持つものであるからの、認識は言語を媒介として発展していくものであるからの、哲学・弁証法を学ぶのに必須の……ということであるが、それは、自身にとっては二重の意義があると思える。
一つは、古代ギリシャの人類の認識と直接的同一性あるものとしての「古典ギリシャ語」を学ぶことによって、古代ギリシャ哲学を誕生させた古代ギリシャ人の、古代ギリシャという時代・社会の認識に触れることが出来るであろうという意義。(とともに同時代の人類の認識の共通性として、鍼灸を誕生させた古代中国人の認識に迫ることにも繋げていけると思うが、それは別の機会に説きたいと思う)
もう一つの意義は、南郷先生が著作の中で、度々ギリシャ語の原文を使われているからの……である。どういうことかといえば、世に氾濫する似非学者が使う虚仮威しの横文字、数式の類と違って、南郷先生がギリシャ語の原文を使われているからには使うだけの必然性があるだろうからであり、それだけに古典ギリシャ語を学ぶことが南郷先生の認識に迫るには必須のことと思えるからである。
以上を要するに、哲学・弁証法の理解のために、その原点と頂点において古典ギリシャ語の素養くらいは必須であろうとの思いからの、「古典ギリシャ語」の学びである。この機会を千載一遇の、と捉えて取り組んでいきたい。
「古典ギリシャ語」とは、紀元前5世紀頃のアッティカ方言、つまり古代ギリシャ文化の中心地であったアテネで使われていた言語である。それゆえ、古代ギリシャ哲学の原典を学ぶのには必須のものであるとされる。
その「古典ギリシャ語」の学びの機会が持てそうである。そこで、改めてその学びの意義について考えてみた。一般的には、言語は認識と直接的同一性を持つものであるからの、認識は言語を媒介として発展していくものであるからの、哲学・弁証法を学ぶのに必須の……ということであるが、それは、自身にとっては二重の意義があると思える。
一つは、古代ギリシャの人類の認識と直接的同一性あるものとしての「古典ギリシャ語」を学ぶことによって、古代ギリシャ哲学を誕生させた古代ギリシャ人の、古代ギリシャという時代・社会の認識に触れることが出来るであろうという意義。(とともに同時代の人類の認識の共通性として、鍼灸を誕生させた古代中国人の認識に迫ることにも繋げていけると思うが、それは別の機会に説きたいと思う)
もう一つの意義は、南郷先生が著作の中で、度々ギリシャ語の原文を使われているからの……である。どういうことかといえば、世に氾濫する似非学者が使う虚仮威しの横文字、数式の類と違って、南郷先生がギリシャ語の原文を使われているからには使うだけの必然性があるだろうからであり、それだけに古典ギリシャ語を学ぶことが南郷先生の認識に迫るには必須のことと思えるからである。
以上を要するに、哲学・弁証法の理解のために、その原点と頂点において古典ギリシャ語の素養くらいは必須であろうとの思いからの、「古典ギリシャ語」の学びである。この機会を千載一遇の、と捉えて取り組んでいきたい。