4月からの灸実技の学びの結果として、漸くに自身の灸術の理想的なイメージ描ける様になって来ました。
4月上旬に始まった灸実技の学びも早いものでもう一ヶ月以上もの時間が経ってしまいました。
当初は灸実技は、艾柱を撚って(艾で円錐形のおなじみの灸の形状をつくること)、それに線香で火を点けることを覚えれば灸の基本となることは終わりで、後は<ツボ>と<病>との関係に従って実際に施灸して行くけば良いのだろうくらいに思っていました。
しかしながら実際は艾柱を撚ることすらがなかなかにキレイな円錐形に出来ず、またそれを米粒大、半米粒大の2種類の大きさに作ることも難しく、そればかりでなく艾柱に線香で火を点けることも提灯となってしまう(艾柱が小さい程に、線香で点火する時にくっついて来てしまいやすく、これをその形状がにていることから提灯と呼ぶ)という難しさがあり、漸くにそれらが出来る様に成って来たと思ったら、次には3分間に5荘(個)のスピードを目指し艾柱を紙の上に次々において線香で点火するということが求められ、その時の艾柱の焦げ痕から灸の温度をチェックし穴があいたらアウトと判定される(=穴が開くということは艾柱の燃える温度が高過ぎだから、相手が人間ならば水泡を作るということだからダメ!)という課題と現在取組中です。
そうやって次から次へと出される課題をどうにかこうにかこなして行く中で、漸くにして自身の灸術の技のイメージ(そのための艾柱の形状、撚りかたについての具体的イメージ)が描ける様に成って来たと思えます。それは端的には「効くけれども熱く無く痕も残らない灸」であり「そのために艾柱は如何に撚ればよいか」です。
こう述べると、灸はそもそも艾を皮膚の上で燃やすのだから、当然熱いし、火傷して当然であるし、場合によっては灸痕が残るのも当然なもの!それ故、熱さや灸痕を避ける為には、八分灸という手技があるのに、何を非現実的なことを!との反論が当然にあると思います。
それに対しては上達論的な観点から、上達の過程に必要な認識は如何なるものかを論じることでの再反論が是非に必要とは思いますが、ここでは「全自動の電気炊飯器でご飯を炊くことを練習してご飯を炊くことの上達があるのだろうか?」という例で無理矢理分かっていただいたとして上達論的には改めてとします。
ともあれ授業で指導される内容からも、日本の灸の歴史的ありかた(艾の精製、艾柱を小さくして行くこと、隔物灸の発明、最終的には八分灸が現代の主流であること等々、効くけれども熱く無い灸、痕の残らない灸を求めての技術的な変遷がある)ことからも、自身の描けた灸術の理想的なイメージは妥当性を持つ物と思えます。
以上に述べた自身の灸術の理想のイメージを別の言いをすれば「熱くて当たり前の、跡が残って当たり前の灸を、だから熱いのを我慢しろ、跡の残るのを我慢しろとしてしまうので無くて、また八分で消してしまうのでもなくて、本来、熱くて当たり前、跡が残って当たり前の灸を施して、熱く無く跡を残さず尚かつ効かせる!というのがプロというもの。」であると言えると思います。
そのためには、まずは艾柱を出来る限り柔らかく撚るとともにキレイな円錐形・半米粒大で一定に素早く作れるという課題をまずはクリアせねばと・・・・・。
4月上旬に始まった灸実技の学びも早いものでもう一ヶ月以上もの時間が経ってしまいました。
当初は灸実技は、艾柱を撚って(艾で円錐形のおなじみの灸の形状をつくること)、それに線香で火を点けることを覚えれば灸の基本となることは終わりで、後は<ツボ>と<病>との関係に従って実際に施灸して行くけば良いのだろうくらいに思っていました。
しかしながら実際は艾柱を撚ることすらがなかなかにキレイな円錐形に出来ず、またそれを米粒大、半米粒大の2種類の大きさに作ることも難しく、そればかりでなく艾柱に線香で火を点けることも提灯となってしまう(艾柱が小さい程に、線香で点火する時にくっついて来てしまいやすく、これをその形状がにていることから提灯と呼ぶ)という難しさがあり、漸くにそれらが出来る様に成って来たと思ったら、次には3分間に5荘(個)のスピードを目指し艾柱を紙の上に次々において線香で点火するということが求められ、その時の艾柱の焦げ痕から灸の温度をチェックし穴があいたらアウトと判定される(=穴が開くということは艾柱の燃える温度が高過ぎだから、相手が人間ならば水泡を作るということだからダメ!)という課題と現在取組中です。
そうやって次から次へと出される課題をどうにかこうにかこなして行く中で、漸くにして自身の灸術の技のイメージ(そのための艾柱の形状、撚りかたについての具体的イメージ)が描ける様に成って来たと思えます。それは端的には「効くけれども熱く無く痕も残らない灸」であり「そのために艾柱は如何に撚ればよいか」です。
こう述べると、灸はそもそも艾を皮膚の上で燃やすのだから、当然熱いし、火傷して当然であるし、場合によっては灸痕が残るのも当然なもの!それ故、熱さや灸痕を避ける為には、八分灸という手技があるのに、何を非現実的なことを!との反論が当然にあると思います。
それに対しては上達論的な観点から、上達の過程に必要な認識は如何なるものかを論じることでの再反論が是非に必要とは思いますが、ここでは「全自動の電気炊飯器でご飯を炊くことを練習してご飯を炊くことの上達があるのだろうか?」という例で無理矢理分かっていただいたとして上達論的には改めてとします。
ともあれ授業で指導される内容からも、日本の灸の歴史的ありかた(艾の精製、艾柱を小さくして行くこと、隔物灸の発明、最終的には八分灸が現代の主流であること等々、効くけれども熱く無い灸、痕の残らない灸を求めての技術的な変遷がある)ことからも、自身の描けた灸術の理想的なイメージは妥当性を持つ物と思えます。
以上に述べた自身の灸術の理想のイメージを別の言いをすれば「熱くて当たり前の、跡が残って当たり前の灸を、だから熱いのを我慢しろ、跡の残るのを我慢しろとしてしまうので無くて、また八分で消してしまうのでもなくて、本来、熱くて当たり前、跡が残って当たり前の灸を施して、熱く無く跡を残さず尚かつ効かせる!というのがプロというもの。」であると言えると思います。
そのためには、まずは艾柱を出来る限り柔らかく撚るとともにキレイな円錐形・半米粒大で一定に素早く作れるという課題をまずはクリアせねばと・・・・・。