17/05/01 21:48
これまで自身の『学城』の読みかたは、南郷先生の「巻頭言」を読み、悠季先生の「編集後記」を読みして、その後に「編集後記」に説かれてあることを踏まえつつ目次を見ての自身の興味に従って、あるいは理解しやすそうなものから、最終的に全部を読んだ後に、「この論文はもっとしっかりと分かりたい!」と思ったものを繰り返し読む、という形で読んできた。
しかしながら、今回の菅野先生の『学城 第15号』の「〔講義録〕「生命の歴史」から見た人間の頭脳の成り立ちー子供のより良い頭脳活動を育むために」を読むと、それでは不足なのではないかと思えてきた。その不足の中身とは、〔講義録〕に説かれる以下のことが、『学城』の編集・構成としてもあるのでは無いのか、そのことを等閑視していたのでは無いのか、ということである。
「そしてそのような歴史の学びの中で、とても重要な一つのことに気づくことになりました。
高校までは、歴史というと「日本史」や「世界史」などの教科を学習し、そこでは過去から現代までのたくさんの出来事を覚えるといったことが中心でした。しかしながら、大学入学後の学んだ歴史というのは、そうした高校までに習った「多くの出来事の羅列」とは全く次元の異なる世界だったのです。
それはどういうことかと言いますと、今まで表面しか見えていなかった様々な物事の奥に、直接には目に見えない内部の骨格が少しずつ見えてきて、連綿と繋がっているものがあることが見えてきた、ということです。その中身は大きくは二つあります。
一つは、生命の歴史であっても社会の歴史であっても、何の歴史であっても、最初の段階でいわば核となるもの(原基形態)が形成されてきて、不思議なことにそれが形を変えてもその本質は決して消失することなく連綿と貫かれながら物事は発展していく、ということです。
そしてもう一つは、過去から現在までに生じてきた様々な出来事というのは、どんなものでも、必ずその前の段階までの物事に積み重ねる形で新たなものとして生じてくる、ということ、つまり前の段階をしっかりと経ることなしには、次の新たな段階にはすすめない、途中を飛ばすことは決してできないのだ、ということです。
...(中略)...
また二つ目の点として、物事は必ずその前の段階までをふまえて積み重ねながら新たなものへと発展していく、一言でいえば重層的に発展していく、ということも、あらゆる歴史を学んでいく中で見えてきたことです。」
以上の引用に説かれるのと同様のことが、『学城』という学問誌の編集・構成のありかたとしてもあるのではないのか、一つ一つの論文を読むことによって描かれる像が重層的に積み重なっていってはじめて、『学城』というまともな像が出来上がるのではないのか、ということである。
具体的には、南郷先生の「巻頭言」を原点・原基形態としての諸々の論文であり、それらが重層的に積み重なりあっての、『学城』なのではないのか、そういう意味で、たとえ難解と思える論文であっても、「巻頭言」から始めて、一つ一つ読んでいくことで、像を重層的に積み重ねていくことで、自分勝手に読むのとは学べる中身も違ってくるのでは無いのか?ということである。
何故そのような思いになったのかと言えば、ひとつには自身ですらがブログ記事を書くにあたって、学問の発展の歴史(<一般論>→<現象論>→<構造論>)ということを意識しての論の展開、「まず一般的に」→「具体の事実」→「その意味・構造」というように構成して書こうとするのであるから、ましてや......と思えるからである。
【これは、繰り返していかねばならないこと、と思える。
ともすれば、巻頭言→編集後記と読んだ後は、興味に従ってになりがちであるから、トータルで全部読むのは当たり前として......】