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「唐揚げ」に関わる自身の映像を見ていくことで、唐揚げを食べるという行動に移させる映像とはいかなるものか?ということを書くと予告していたが、ちょうど、からすみパスタを食べたので、映像が生々しいうちにそれで説いてみたい。
今日は夕食に「からすみパスタ」を食べた。それはどんな映像を描いて食べたのだろうか? より正確に言えば、どんな認識 = 映像が「からすみパスタ」を自身に食べさせたのか ?ということを見ていきたい。
認識論的にアバウトに言えば、「からすみパスタ」を食べたということは(1)「からすみパスタ」の映像を描いて(2)その映像に従って、何らかの行動を起こして(自身で作るなり、お店に食べに行くなりして)、その結果、目の前に「からすみパスタ」が出てきて、(3)アタマの中の映像と現実が一致しての、「からすみパスタ」食べることで「からすみパスタ」の映像が消えていく。というのが一般的な「カラスミパスタ」を食べる、の流れである。
そこをもう少し詳しく見ていくことにする。まず(1)の「からすみパスタ」(食べたい)の映像を描くところから、そこは大きく2つ考えられる。
空腹からの食欲で、何かを食べたいとなった時に、あれこれ映像を思い浮かべ、「からすみパスタ」(食べたい)となった場合。
もう一つは前もって「からすみパスタ」という映像があって(食べたいと思っていたとか、冷凍庫を片付けていたらカラスミがあったからカラスミパスタができるなあと思っていたとか)の、いわば知識的な像としてあったのが、空腹になっての食欲とその像が一緒になっての、それまでの知識的であった、しかなかった「からすみパスタ」という映像が、感情像へと変わっていって「からすみパスタ」(食べたい)像へと変わっての、である。
そうやって見てくると「からすみパスタ」の像が単なる知識像であっては、食べるための行動を起こさせるまでには至らず、行動をさせる力を持たず、別言すれば、食欲という感情と一緒になって初めて知識としての「からすみパスタ」という映像は、感情のともなった「からすみパスタ」(食べたい)という映像へとなっていって、その感情のこもった「からすみパスタ」(食べたい)という映像が、その映像を現実の「からすみパスタ」とするべく、行動させる。
具体的には、頭の中の「からすみパスタ」の映像に従って「からすみパスタ」の材料を思い浮かべ(これも映像である)パスタ、にんにく、唐辛子等々の材料を準備し(させ)、「からすみパスタ」の作る手順を思い浮かべて(これも映像)、鍋にお湯を沸かし、塩を入れ、パスタを入れてフライパンには潰したにんにくとオリーブオイルを入れてして......作って皿に盛り付ける。
(3)ここで、それまでは頭の中の映像であった、でしかなかった「からすみパスタ」が現実ものとして、目の前にあるものの映像として、アタマの中には現実の反映の「からすみパスタ」の映像とアタマの中に前もってあった「からすみパスタ」(食べたい)の映像(これは問いかけ像である!)が一致する。
そして、それを食べることで、空腹が満たされていくとともに「からすみパスタ」(食べたい)という映像は消えていく。
このように見てくると、最初に描いた「からすみミパスタ」(食べたい)という映像が、作る、食べるという行動をさせ、それらの過程の反映は、例えば「パスタを作る」に関わる過程の反映は「からすみ。パスタ」(食べたい)という問いかけ像に従っての反映像であるから、からすみやパスタ、塩、水が、「からすみパスタ」へとなっていく。(労働)
動物にはそれ (= 問いかけ像)がないから、そもそも目の前にない「からすみパスタ」の映像を描くこともないし、空腹であっても、見てもいないのに「からすみパスタ」(食べたい)とはならないし、そもそも「からすみパスタ」(食べたい)として、作ることも、お店を探すこともない。
そういう意味では、目の前の「からすみパスタ」の反映以外の、「からすみパスタ」(食べたい)となった像に始まる、すべての「からすみパスタ」の像は、人間だけが創り出せる「問いかけ像」ということになるのだろうか?
では、空腹になってあれこれ思い浮かべた中の「からすみパスタ」の映像、知識像は「問いかけ像」なのか ? それとも過去の反映像というべきか ?
過去の像と食べたいとなって思い浮かぶ像との違いは、空腹による食欲という感情が絡んでいるか否かの違いなのだろうか?
もう少し具体の像を見ていくことで、「問いかけ像」の誕生、「もどき像」から「問いかけ像」というところを、自身の映像として見ていきたい。(今回はここまでである。)