「唯物論の歴史」読み始めた。トマス・アキュナスの学の体系の過程的構造のあり方に、東洋医学の学びの指針得たとの思いする。
この連休は、まとまった時間が取れるので、また経穴の暗記も一区切りつき12月上旬の生理学等を含んでの実力テストまでは少しあるので、読もうと思って読めなかった何冊かの本を読み始めた。
その中の一冊、「唯物論の歴史」(西本一夫著 新日本新書)でトマス・アキュナスの学の体系の過程的構造について、「トマスの哲学は膨大な体系をなしており、きわめて博識な人であったトマスは、神を頂点におくこのピラミッドのような大体系のなかに、当時の自然科学的知識をもふくめて、あらゆる知識を包み込んでしまい、こうしてその体系のなかに位置づけることによって、あらゆるものを神に従属させてしまいました。トマスの体系は、自己にとって異質的なもの、自己に敵対する要素までも、自己のうちにのみこみ、自己の一部分とすることによって、これを克服しようとしたのです。」と説かれてある。
自身が東洋医学を学んでいく過程的構造は、こういうことでなければならない。自身の目指すべき道をズバリと言ってもらえた!と思えた。(これは二重の意味でそうなのだと思える。詳細は改めて説くつもりである。)
そう思い至ると、想起されるのが、薄井先生が執筆された「ナースが視る病気」(講談社)の第1章、「看護の視点から病気を類別する」の項にある「ライフサイクルにおける健康障害の現れ」という図である。
ここでは、(西洋医学の)病気というものが、看護の視点から、<毒され群><衰え群><(毒されと衰えの・・・青龍)相互影響群>という形で、ライフサイクルという人間の「生長化収蔵」という過程に重ねて類別されている。
例えば、こういうことが、「東洋医学の視点(例えば、実証と虚証)から(西洋医学の)病気を類別する」ということが、トマス・アキュナスの学の形成の過程的構造から学ぶべきことであり、自身のなすべきことの一つのありかたなのである。と思う。
この連休は、まとまった時間が取れるので、また経穴の暗記も一区切りつき12月上旬の生理学等を含んでの実力テストまでは少しあるので、読もうと思って読めなかった何冊かの本を読み始めた。
その中の一冊、「唯物論の歴史」(西本一夫著 新日本新書)でトマス・アキュナスの学の体系の過程的構造について、「トマスの哲学は膨大な体系をなしており、きわめて博識な人であったトマスは、神を頂点におくこのピラミッドのような大体系のなかに、当時の自然科学的知識をもふくめて、あらゆる知識を包み込んでしまい、こうしてその体系のなかに位置づけることによって、あらゆるものを神に従属させてしまいました。トマスの体系は、自己にとって異質的なもの、自己に敵対する要素までも、自己のうちにのみこみ、自己の一部分とすることによって、これを克服しようとしたのです。」と説かれてある。
自身が東洋医学を学んでいく過程的構造は、こういうことでなければならない。自身の目指すべき道をズバリと言ってもらえた!と思えた。(これは二重の意味でそうなのだと思える。詳細は改めて説くつもりである。)
そう思い至ると、想起されるのが、薄井先生が執筆された「ナースが視る病気」(講談社)の第1章、「看護の視点から病気を類別する」の項にある「ライフサイクルにおける健康障害の現れ」という図である。
ここでは、(西洋医学の)病気というものが、看護の視点から、<毒され群><衰え群><(毒されと衰えの・・・青龍)相互影響群>という形で、ライフサイクルという人間の「生長化収蔵」という過程に重ねて類別されている。
例えば、こういうことが、「東洋医学の視点(例えば、実証と虚証)から(西洋医学の)病気を類別する」ということが、トマス・アキュナスの学の形成の過程的構造から学ぶべきことであり、自身のなすべきことの一つのありかたなのである。と思う。