MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

何故、カレーをフォークで食べると美味しいのか?〜美味しいという像の構造〜

2015-11-22 17:00:00 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
 『私が最近弱っているのは 毎日「なんとなく」 食べているからかもしれない』の新聞広告に、「カレーをフォークで食べると、新しいおいしさに震える」とあった。人間にかかわることの認識論的な捉え返しの大事性実感する。

 朝日新聞朝刊で、『私が最近弱っているのは 毎日「なんとなく」 食べているからかもしれない』(小倉朋子著 文響社)という本の新聞広告が目に止まり、<食>に関わることは何であれ興味があるので、ざっと読んでみると「カレーをフォークで食べると、新しいおいしさに震える」との一文があった。

 その時は、「そんなものか」と読み過ごしたのだが、たまたま今日の昼食にカレーを(スプーンで)食べていて、「カレーをフォークで食べると、新しいおいしさに震える」とのフレーズがアタマに浮かんで、試してみた。

 確かに、味が違ってくる。スプーンで食べるより、より繊細に味が分かる様に感じた。試しに箸でも食べてみたが、一層繊細な味わいとなった。と思える。
 「何故?」と考えてみると、「美味しい」という像は、舌からの味覚=一感情の像の様に思うが、この像も認識であるから、本当は五感情像であるはず。

 食べるが一感情像でないことは、例えば、盛り付けが美しいと美味しく感じるとか、インド音楽でも流して食べると本格的な味に感じるとか、風邪で鼻が利かないと味がしないとか、「入れ歯にするとご飯が美味しくない。噛むことも味の内。」と高齢の患者さんからよく聞かされる。とかでよく知っている。筈であった。
 
 しかし、である。それだけではなく、カレーを口に運ぶ手先からの感覚もまた、「カレーの味」という像に関わっている=カレーの美味しさに関わっている。のだと思える。
 それに関連して想起したのが、インド等ではカレーを手で食べるということである。これも、「カレーは手で食べないと本当の美味しさは味わえない。」と聞くか読むかして、少し抵抗があったが実際に試してみて、「確かに味が違う。この方が美味しい!」と納得した過去の出来事がある。

 要するに、人間は対象を五感情で、かつ全身で反映させている!ということなのだと思う。それゆえの「カレーをフォークで食べると、新しいおいしさに震える」なのだと思う。(『私が最近弱っているのは 毎日「なんとなく」 食べているからかもしれない』で、そういう構造が説かれているかは、広告しか読んでないので、知らないが・・・・・・。)
 
 そう考えると、手技療法術の施術に於いて、患者に反映する全てを整えるということの大事性、室温、明るさ、ベッドの硬さ、かけるタオルの素材、部屋の空気の清浄さという外的環境、それのみならず空腹であるとか、喉が渇いているとか、トイレに行きたい、熱がある、冷えているとかの内的環境、それ以上に気分がいいのか、ストレスが溜まっているのか、悲しいのか、嬉しいのかの認識のありかたとそれを整えるあるいは乱す施術時の会話ののありかた等々、あらゆるものをしっかりと整えることを成して初めて、最高の施術が可能となっていくのだ。と思えた。
 また、上述のことを可能としていくためには、認識論的な実力が不可欠であるとも思えた。

 自身の現状からすれば、最高の施術を成すには、いくつもクリアせねばならないことがあると自身の不足、痛感された。
 

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