脈診の問題は、その困難性は、端的には二重性を持つものを一重のものとしてしまっている、してしまうことにある。
そしてそれが観念の世界の問題であるだけに、説かれる側には分からない、分かりようがないし、のみならず説く側にも分かっていない、わかる実力がない、ということなのだと思える。
これは、東洋医学の諸々の問題の困難性についても、多くは全く同じ構造を持つものであると思える。それだけに論理的実力の不足、もっといえば認識論の実力の不足、それ以前の問題として認識論の学びの欠けたるゆえであるとその学びの必要性が痛感される。
具体的に、例えば脈診の問題であれば、初心者には脈だけから身体の状態(例えば五蔵の虚実)を分かることは、ほとんど全く不可能なことであるが、鍼灸治療歴十数年以上というようなベテランの先生ともなれば、脈を診るだけで患者の状態が、例えば脾虚証だとか肺虚証だとかが分かる、というのである。
しかしながら、それは治療経験十数年以上というようなベテランの先生ともなれば脈診以前に、診察室に入ってきた患者の雰囲気、具体的には歩きかた、体型、姿勢、顔色、臭い、声、服装等々から、それなりにしっかりと患者の状態が分かる(望診)、そこから五蔵の虚実を見て取ることが出来ており、その五蔵の虚実という像をもって問いかけ的に脈診を行うからの、単なる橈骨動脈の拍動が五蔵の虚実を示すものとして反映してくるのだ、ということである。
いわゆる脈診が、通常語られることの背後にそのような認識のプロセスを持ってのものであるにも関わらず、脈診をおこなうベテランの先生たちには自身の認識を客観的に見て取る実力が無い、というかそのような自身の認識を像として見て、追う訓練を一度たりとも成したことがなかったが故に、彼らに見えるもの、見ることのできるものは単に脈診の手順と自身の思い、そして脈診で五蔵の虚実が分かったという結果だけである。
もっといえば、脈を診て、「腎虚証!」と分かった像の背後には、その先生の十数年以上もの経験や本、あるいは師や先輩からの学びを踏まえての望診をはじめとする診断の実力、この実力もまた一流レベルへと技化されているならば、当然のこととして無意識レベルに駆使できるまでになっているはずである、の結果としての「腎虚証!」の像を創り上げるプロセスがしっかりとあっての、そのような問いかけで手首の脈を視るからの、何が何だか分からなくて首をかしげるしか無い手首の脈を診て、これはまた逆にいえば何が何だか分からないからこそのでもあるが、「腎虚証!」となるという認識のプロセスがある。(もちろんこの背後のプロセスも、パズル的クイズ的に単なる当てはめを行う先生から、人類の文化遺産としての東洋医学をまともに受け継いでの先生までピンキリではあるが)
それら二重性を持つ認識を、自身の見ることの出来る部分、自身の主観だけを見て、一つのものとして自身にとって脈診が役に立つという現実から、「脈診には有効性がある!」と脈診が説かれるから、別言すれば、脈診の背後にある目に見えないものを説くことができずに自身が見ることの出来る部分だけを説いて終わってしまうから、脈診というものがいつまでたっても、「非科学的!」と批判されるしか無いのである。そしてそれに対して、「鍼灸に科学は馴染まない!」としたり「脈診による治療には効果がある場合がある!」と事実レベルでの反論しかできない鍼灸の世界の現実があるのだ、と思える。
では、脈診には、脈診の学びには意味がないのか!?といえば、それはまた別の問題である......と思える。
そしてそれが観念の世界の問題であるだけに、説かれる側には分からない、分かりようがないし、のみならず説く側にも分かっていない、わかる実力がない、ということなのだと思える。
これは、東洋医学の諸々の問題の困難性についても、多くは全く同じ構造を持つものであると思える。それだけに論理的実力の不足、もっといえば認識論の実力の不足、それ以前の問題として認識論の学びの欠けたるゆえであるとその学びの必要性が痛感される。
具体的に、例えば脈診の問題であれば、初心者には脈だけから身体の状態(例えば五蔵の虚実)を分かることは、ほとんど全く不可能なことであるが、鍼灸治療歴十数年以上というようなベテランの先生ともなれば、脈を診るだけで患者の状態が、例えば脾虚証だとか肺虚証だとかが分かる、というのである。
しかしながら、それは治療経験十数年以上というようなベテランの先生ともなれば脈診以前に、診察室に入ってきた患者の雰囲気、具体的には歩きかた、体型、姿勢、顔色、臭い、声、服装等々から、それなりにしっかりと患者の状態が分かる(望診)、そこから五蔵の虚実を見て取ることが出来ており、その五蔵の虚実という像をもって問いかけ的に脈診を行うからの、単なる橈骨動脈の拍動が五蔵の虚実を示すものとして反映してくるのだ、ということである。
いわゆる脈診が、通常語られることの背後にそのような認識のプロセスを持ってのものであるにも関わらず、脈診をおこなうベテランの先生たちには自身の認識を客観的に見て取る実力が無い、というかそのような自身の認識を像として見て、追う訓練を一度たりとも成したことがなかったが故に、彼らに見えるもの、見ることのできるものは単に脈診の手順と自身の思い、そして脈診で五蔵の虚実が分かったという結果だけである。
もっといえば、脈を診て、「腎虚証!」と分かった像の背後には、その先生の十数年以上もの経験や本、あるいは師や先輩からの学びを踏まえての望診をはじめとする診断の実力、この実力もまた一流レベルへと技化されているならば、当然のこととして無意識レベルに駆使できるまでになっているはずである、の結果としての「腎虚証!」の像を創り上げるプロセスがしっかりとあっての、そのような問いかけで手首の脈を視るからの、何が何だか分からなくて首をかしげるしか無い手首の脈を診て、これはまた逆にいえば何が何だか分からないからこそのでもあるが、「腎虚証!」となるという認識のプロセスがある。(もちろんこの背後のプロセスも、パズル的クイズ的に単なる当てはめを行う先生から、人類の文化遺産としての東洋医学をまともに受け継いでの先生までピンキリではあるが)
それら二重性を持つ認識を、自身の見ることの出来る部分、自身の主観だけを見て、一つのものとして自身にとって脈診が役に立つという現実から、「脈診には有効性がある!」と脈診が説かれるから、別言すれば、脈診の背後にある目に見えないものを説くことができずに自身が見ることの出来る部分だけを説いて終わってしまうから、脈診というものがいつまでたっても、「非科学的!」と批判されるしか無いのである。そしてそれに対して、「鍼灸に科学は馴染まない!」としたり「脈診による治療には効果がある場合がある!」と事実レベルでの反論しかできない鍼灸の世界の現実があるのだ、と思える。
では、脈診には、脈診の学びには意味がないのか!?といえば、それはまた別の問題である......と思える。