車の試乗を行った。他人の論理を学ぶということも唯物論的でなければならない、と、その論理に関わる生の対象をしっかりと反映させての学びの大事性(自身にとっての必須性)を実感した。
昨日、ルノーディーラーで車の試乗(ルーテシアRS、メガーヌGT、トゥインゴ・インテンス)をした。当初の目的はルーテシアRSの試乗(『ニューモデルマガジンX』(株式会社ムックハウス)の「ざ・総括」で星五つの最高評価で、そこでの2017年カーオブザイヤーともなっていたので、是非とも実際に乗ってその説かれてあるところを(素晴らしさを)確かめたいとの思いでの)であったが、メガーヌGTとトゥインゴ・インテンスの試乗もできるというので併せて試乗した。
「ルーテシアRS」
外観は普通の小型車なのであるが、乗った瞬間に「まるで戦闘機!」(といっても戦闘機には乗ったことが無いのであるが)との感覚があった。シート(レカロとの共同開発らしい)、ステアリング、ペダル等の自身の身体で触れる部分の剛性感が高く、尚且つぴったりとフィットする感じがあり、加えて、全身で感じるボディ、足回りの剛性感も非常に高いことからの「戦闘機!」との思いになったのだと思う。
実際に走り出してみると、ボディと足回りの剛性感は静止した状態のままのであったし、それに加えてエンジンの音、アクセル操作に対しての吹け上がり方、DCTのシフトチェンジの素早さ、スムーズさ、ステアリングを切った時のしっかり感等々から、車に乗った瞬間の「まるで戦闘機!」のような凄い車という感覚が試乗している間、常にあった。
それだけに「これは良い車だなあ!」との思いがするとともに、一方で「一瞬たりとも気が抜け無い」といった緊張感が常にあった。これはこの後にメガーヌGTに試乗した時に強く感じさせられたことであるが、端的にはルーテシアRSを「良い車!凄い車!」と感心しきって、次にメガーヌGT に乗ると「ほっ」と肩の力が抜けリラックス出来ということで自身の緊張を自覚させられたことであった。
「メガーヌGT」
次に試乗したのがメガーヌGT、この車は今回の試乗ではおまけ的な位置づけであった(本当に乗ってみたいのは今夏ごろに日本に導入されるらしいメガーヌRSである)のだが、乗った瞬間にゆったりとリラックス出来(これはルーテシアRSとの対比で一層感じられたことと思うのだが)、日常的に乗るのや長い時間、長距離乗るのならば「こっち!」と思える車であった。自身の運転のレベルにはぴったりとの思いした。また4コントロールという四輪操舵によって切れ味よく曲がる感覚は、『おっ!」と良い意味で驚かされる新鮮なものであった。(しかしながら、この新鮮な感覚も後で思い返すと、VWの4モーションと同じで、あまりに表に出てくると、機械に乗せられているとの違和感になっていくかもしれない、とも思えた。)
「トゥインゴ・インテンス」
最後に乗ったトゥインゴはRRという近頃珍しい駆動方式の車である。が、そのハンドリングの軽快さに感心させられ、低価格ゆえの?造りの雑さ、質素さはあっても、これで十分、街乗りであればこれが最高と思える車であった。重厚長大な車をやめてトゥインゴに乗り換えれば、大袈裟にいえば「人生変わるのかも」と思える車であった。
確かに、車雑誌等で時に言われるようにDECの変速は雑さを感じさせるもの(シトロエンC3の如くにATでもよかったのではと思えるもの)であったが、それまでもトゥインゴのキャラクターからすれば許容されるものと思え、今回試乗した車のみならず、年末から試乗した何台かの車(フォルクスワーゲン、アウディ、シトロエン、ルノー、ホンダ)の中でトゥインゴは一番欲しくなる車であった。
今年は早々にトゥインゴのRS版といっていいトゥインゴGTが日本に導入されるので興味津々である。(トゥインゴという車のキャラクターからすれば素のモデルが一番良いのかもしれ無いとも思えるが……)
さて、長々と本ブログの主題とはあまり関係のないと思われる「車の試乗記」を書いてきたのであるが(おそらくは読者の皆さんも、「おいおい俺は素人の車の試乗記が読みたくてきたのじゃあないぞ!」との思いでおられるとは思うが、もう少しの間辛抱してお付き合いいただければと)、今回の試乗した車のいくつかは「ざ・総括」で取り上げられている車であり、自身の今回の試乗の目的の一つは、「ざ・総括」で説かれることの理解が、雑誌の文字からのみの反映と実際にそこにとりあげられている車に乗ってみての反映とではその像は、どのように変わるのか、変わら無いのか、ということであった。(本当は、車を分解してみて組み立ててみて、ここがこうなっているからこういう走りをするのか!との理解が必要なのかもしれ無いが……)
ここは、別言するならば、論理というものは事実の論理であるだけに実際にその論理が抽きだされてきたところの生の事実とのしっかりとした格闘レベルの実践をもってこそ、本当にその論理がわかることができる=再措定の過程との自身の思い(南郷先生から学んだと思っていること)の試しでもあった。
実際に試乗してみての自身の像の変化を端的には、説かれることが言葉としてではなしに像として描けるようになった、あるいは薄っぺらであった像が厚みを持ったものへと変えられていった、ということだと思う。これは別言すれば、説かれることを身体でわかる、とか説かれる事実をしっかりと持ってわかる、ということと言ってもいいのではと思う。
これは例えば、ルーテシアRSについて「ざ・総括」では、「ボディ剛性がとにかく高い」とか「これが人馬一体」、あるいは「走りは満点。でも毎日乗るには疲れる。」と説かれてあるのだが、それが「こういうことを言っているのか!」と生の生々しい反映=像とともにわかることができた。ということである。
もっと言えば、例えば「人馬一体」と言った場合、それは、何らかの事実から上がっての論理であるのだから、結果としての?論理である「人馬一体」を自身でその事実を持た無いで「人馬一体」ということが言葉からわかったつもり「人馬一体」という言葉を使ってみたところで、なんとも空々しい、聞く人が聞けば「分かりもし無いくせに知ったかぶりをして」と苦笑するレベルでしか、その「人馬一体」という言葉を分かれない=使えないということになってしまう、のだと思える。(ここは、自身の認識論的実力の無さから的確に言い表せず、何とももどかしいのであるが……いずれ改めて説きたい)
以上が、説かれることを説かれる言葉から理解するのと、説かれることを、その大元である事実から上がって理解するのとの違いである、と自身では思っているのであるが、このことは他人の論理を理解するのには必須のことである、とともに、その他人の論理を自身の論理として使う上でも必須のことである(=再措定の過程)のみならず、他人の論理が本物であるのか、それろも単なる空理空論でしかないのかを見て取る実力を身につける上でも必須のことである、と思える。
ここは(以前に自由びとさんのブログにコメントして消えてしまった)抽象画の問題と同じ、端的には、「抽象画は具象画を極めた上での、でなければならない」(これは南郷先生がどこかで説いてくださっていたと思うが)ということと同じ論理である、と思える。(このことは、いずれどこかで説きたいと思っている。)
以上が、昨日に書いたブログ記事であるが、本来説きたかったのは、冒頭の「他人の論理を学ぶということも唯物論的でなければならない……その論理に関わる生の対象をしっかりと反映させての学びが大切である。」ということであるのだが、しっかりと事実から上がるべきとの思いから長々と愚にもつかない「素人の車の試乗記」を読者の皆さんに読ませることとなってしまった。自身でも書くこととなってしまった。
そこから思ったことは、論理的な実力を培うのには事実から論理へということが必須であるが、その先では、そのようにして措定、ないしは再措定した論理は、事実から上がることをカットして論理として使うことを訓練していくべきなのではないのか、ということである。
これは今回のブログ記事で言えば、それを書く中で、事実の提示(と自身では思っている)部分で労力を使ってしまって、本来説きたかったその事実の意味の部分が随分と薄くなってしまっているということである。本来ならば、その事実の意味の部分にこそ労力を割かねばならないのに、と思える。
ここも当然に過程性を持つ問題であるから、平面的に理解してはならないと思うが、いずれ改めて、具象画から抽象画への問題とともに説きたいと思う。
昨日、ルノーディーラーで車の試乗(ルーテシアRS、メガーヌGT、トゥインゴ・インテンス)をした。当初の目的はルーテシアRSの試乗(『ニューモデルマガジンX』(株式会社ムックハウス)の「ざ・総括」で星五つの最高評価で、そこでの2017年カーオブザイヤーともなっていたので、是非とも実際に乗ってその説かれてあるところを(素晴らしさを)確かめたいとの思いでの)であったが、メガーヌGTとトゥインゴ・インテンスの試乗もできるというので併せて試乗した。
「ルーテシアRS」
外観は普通の小型車なのであるが、乗った瞬間に「まるで戦闘機!」(といっても戦闘機には乗ったことが無いのであるが)との感覚があった。シート(レカロとの共同開発らしい)、ステアリング、ペダル等の自身の身体で触れる部分の剛性感が高く、尚且つぴったりとフィットする感じがあり、加えて、全身で感じるボディ、足回りの剛性感も非常に高いことからの「戦闘機!」との思いになったのだと思う。
実際に走り出してみると、ボディと足回りの剛性感は静止した状態のままのであったし、それに加えてエンジンの音、アクセル操作に対しての吹け上がり方、DCTのシフトチェンジの素早さ、スムーズさ、ステアリングを切った時のしっかり感等々から、車に乗った瞬間の「まるで戦闘機!」のような凄い車という感覚が試乗している間、常にあった。
それだけに「これは良い車だなあ!」との思いがするとともに、一方で「一瞬たりとも気が抜け無い」といった緊張感が常にあった。これはこの後にメガーヌGTに試乗した時に強く感じさせられたことであるが、端的にはルーテシアRSを「良い車!凄い車!」と感心しきって、次にメガーヌGT に乗ると「ほっ」と肩の力が抜けリラックス出来ということで自身の緊張を自覚させられたことであった。
「メガーヌGT」
次に試乗したのがメガーヌGT、この車は今回の試乗ではおまけ的な位置づけであった(本当に乗ってみたいのは今夏ごろに日本に導入されるらしいメガーヌRSである)のだが、乗った瞬間にゆったりとリラックス出来(これはルーテシアRSとの対比で一層感じられたことと思うのだが)、日常的に乗るのや長い時間、長距離乗るのならば「こっち!」と思える車であった。自身の運転のレベルにはぴったりとの思いした。また4コントロールという四輪操舵によって切れ味よく曲がる感覚は、『おっ!」と良い意味で驚かされる新鮮なものであった。(しかしながら、この新鮮な感覚も後で思い返すと、VWの4モーションと同じで、あまりに表に出てくると、機械に乗せられているとの違和感になっていくかもしれない、とも思えた。)
「トゥインゴ・インテンス」
最後に乗ったトゥインゴはRRという近頃珍しい駆動方式の車である。が、そのハンドリングの軽快さに感心させられ、低価格ゆえの?造りの雑さ、質素さはあっても、これで十分、街乗りであればこれが最高と思える車であった。重厚長大な車をやめてトゥインゴに乗り換えれば、大袈裟にいえば「人生変わるのかも」と思える車であった。
確かに、車雑誌等で時に言われるようにDECの変速は雑さを感じさせるもの(シトロエンC3の如くにATでもよかったのではと思えるもの)であったが、それまでもトゥインゴのキャラクターからすれば許容されるものと思え、今回試乗した車のみならず、年末から試乗した何台かの車(フォルクスワーゲン、アウディ、シトロエン、ルノー、ホンダ)の中でトゥインゴは一番欲しくなる車であった。
今年は早々にトゥインゴのRS版といっていいトゥインゴGTが日本に導入されるので興味津々である。(トゥインゴという車のキャラクターからすれば素のモデルが一番良いのかもしれ無いとも思えるが……)
さて、長々と本ブログの主題とはあまり関係のないと思われる「車の試乗記」を書いてきたのであるが(おそらくは読者の皆さんも、「おいおい俺は素人の車の試乗記が読みたくてきたのじゃあないぞ!」との思いでおられるとは思うが、もう少しの間辛抱してお付き合いいただければと)、今回の試乗した車のいくつかは「ざ・総括」で取り上げられている車であり、自身の今回の試乗の目的の一つは、「ざ・総括」で説かれることの理解が、雑誌の文字からのみの反映と実際にそこにとりあげられている車に乗ってみての反映とではその像は、どのように変わるのか、変わら無いのか、ということであった。(本当は、車を分解してみて組み立ててみて、ここがこうなっているからこういう走りをするのか!との理解が必要なのかもしれ無いが……)
ここは、別言するならば、論理というものは事実の論理であるだけに実際にその論理が抽きだされてきたところの生の事実とのしっかりとした格闘レベルの実践をもってこそ、本当にその論理がわかることができる=再措定の過程との自身の思い(南郷先生から学んだと思っていること)の試しでもあった。
実際に試乗してみての自身の像の変化を端的には、説かれることが言葉としてではなしに像として描けるようになった、あるいは薄っぺらであった像が厚みを持ったものへと変えられていった、ということだと思う。これは別言すれば、説かれることを身体でわかる、とか説かれる事実をしっかりと持ってわかる、ということと言ってもいいのではと思う。
これは例えば、ルーテシアRSについて「ざ・総括」では、「ボディ剛性がとにかく高い」とか「これが人馬一体」、あるいは「走りは満点。でも毎日乗るには疲れる。」と説かれてあるのだが、それが「こういうことを言っているのか!」と生の生々しい反映=像とともにわかることができた。ということである。
もっと言えば、例えば「人馬一体」と言った場合、それは、何らかの事実から上がっての論理であるのだから、結果としての?論理である「人馬一体」を自身でその事実を持た無いで「人馬一体」ということが言葉からわかったつもり「人馬一体」という言葉を使ってみたところで、なんとも空々しい、聞く人が聞けば「分かりもし無いくせに知ったかぶりをして」と苦笑するレベルでしか、その「人馬一体」という言葉を分かれない=使えないということになってしまう、のだと思える。(ここは、自身の認識論的実力の無さから的確に言い表せず、何とももどかしいのであるが……いずれ改めて説きたい)
以上が、説かれることを説かれる言葉から理解するのと、説かれることを、その大元である事実から上がって理解するのとの違いである、と自身では思っているのであるが、このことは他人の論理を理解するのには必須のことである、とともに、その他人の論理を自身の論理として使う上でも必須のことである(=再措定の過程)のみならず、他人の論理が本物であるのか、それろも単なる空理空論でしかないのかを見て取る実力を身につける上でも必須のことである、と思える。
ここは(以前に自由びとさんのブログにコメントして消えてしまった)抽象画の問題と同じ、端的には、「抽象画は具象画を極めた上での、でなければならない」(これは南郷先生がどこかで説いてくださっていたと思うが)ということと同じ論理である、と思える。(このことは、いずれどこかで説きたいと思っている。)
以上が、昨日に書いたブログ記事であるが、本来説きたかったのは、冒頭の「他人の論理を学ぶということも唯物論的でなければならない……その論理に関わる生の対象をしっかりと反映させての学びが大切である。」ということであるのだが、しっかりと事実から上がるべきとの思いから長々と愚にもつかない「素人の車の試乗記」を読者の皆さんに読ませることとなってしまった。自身でも書くこととなってしまった。
そこから思ったことは、論理的な実力を培うのには事実から論理へということが必須であるが、その先では、そのようにして措定、ないしは再措定した論理は、事実から上がることをカットして論理として使うことを訓練していくべきなのではないのか、ということである。
これは今回のブログ記事で言えば、それを書く中で、事実の提示(と自身では思っている)部分で労力を使ってしまって、本来説きたかったその事実の意味の部分が随分と薄くなってしまっているということである。本来ならば、その事実の意味の部分にこそ労力を割かねばならないのに、と思える。
ここも当然に過程性を持つ問題であるから、平面的に理解してはならないと思うが、いずれ改めて、具象画から抽象画への問題とともに説きたいと思う。
>端的には、「抽象画は具象画を極めた上での、でなければならない」(これは南郷先生がどこかで説いてくださっていたと思うが)ということと同じ論理である、
同感・痛感・共感です。
↑これは、以下の私的な事実からの感情像です。
昔々の事。いつの頃かは思い出せません。
当時の私には「ピカソ」の絵の良さが全く分かりませんでした。
『
どうして…こんな絵が有名な名画なの?』…そんな思いでした。
でも、ある時、彼の描いた数枚デッサン画の写真を見て、その数々のデッサン画の上手い事…には驚くました。
そして、思った事は、この実力で書いた、あんな絵だから、名画なのかも…でした。
>例えば「人馬一体」と言った場合、それは、何らかの事実から上がっての論理であるのだから、結果としての?論理である「人馬一体」を自身でその事実を持た無いで「人馬一体」ということが言葉からわかったつもり「人馬一体」という言葉を使ってみたところで、なんとも空々しい、聞く人が聞けば「分かりもし無いくせに知ったかぶりをして」と苦笑するレベルでしか、その「人馬一体」という言葉を分かれない=使えないということになってしまう、のだと思える。
想い出しました。
南郷継正の説いている。
言葉の使用の二重性。
実感ある言葉の使用(勝負論的使用)。
実感なき言葉の使用(上達論的使用)。
私は馬に乗った事はあります。
でも、それは「乗せて頂いた」(自力で乗ってない)だけです。
だから、人馬一体の事実はありません。
また、日頃から「馬」とは縁のない生活を送っている私には、事実的な「人馬一体」の再措定は無理です。
それでも、過去に教え子との関りで、一体感を痛感した事があります。
それは、その子と話していて、何故か私の心の底から湧いてきた感情です。
それは時に、何故か自然に涙が滲んできた事もありました。
それは、若い私の自分勝手な感情だったのも…しれません。
しかし、そのような事があつてから、とても素直になった子供もいました。
「人馬一体」感の感じ方のレベルの相違。
私だけが感じた一体感。相手だけが感じた一体感。
私と相手の双方が感じた一体感。
これは、相手の一部・一瞬だけの一体化と相手との全体的・持続的な一体化…
事実としての捉えた「人馬一体」の二重性。
人が、自分を馬に合わせて制御。
人が、馬を自分に合わせて制御。
再措定の二重性。
事実的な再措定。
論理的な再措定。
事実的な再措定とは、実際に人が馬と「一体感」の創出。
論理的な再措定とは、違った事実で「一体感」の創出。
ただ、馬と関われる条件さえあれば、馬の操作法は比較的容易であっても、人間と関われる条件あっても、人間相手の操作法は至難ですね。
なので、「一体感」の創出・再措定は、創り易い事実が適しているのでしょう。
長々とすみません、でした。
青龍さんの参考になれば有難いです。
「対象の観念論的な見方」が、朧気ながらも見え始めました。
今までは、結構~めくら撃ち的でしたが…
例えば、対象が「人馬一体」の理解なら、私のように、これを「人と馬の一体感」と理解して満足する事は観念論的な見方です。
その理由は、過去に「人馬一体」的な事実・体験なく、他の一体感的な体験感情・観念をそのまま「人馬一体」的な一体感に横滑りさせているからです。
それでも、相手との会話の中で、「あの人馬一体とした走りは凄い!」という言葉の感情的理解には有効です。
ただ、その場合、頭の中では「人馬一体」像ではなく、別の一体感経験像を描いている事でしょう。
では、体験・経験のない私の場合の「人馬一体」の唯物論的な見方とは、それは自分が観念論的な見方をしている、という自覚です。
人と馬の一体的な感情は理解可能でも、人と馬の一体的な疾走感も、その一体的な疾走が可能になるまでの過程・苦しみ・喜び…は知り得ない事の自覚を忘れない事。
常に自分の見方が観念論的であり得る自覚を持ち続けて対象を見て取る見方が唯物論的な見方の第一歩なのでしょう。
何故なら、人は対象を観念で問いかけ続けるから、です。
では、「人馬一体」な体験をした人物同士ならこの「人馬一体」・言葉を唯物論的に見られるだろうか?
これも、条件次第である。
それは、この言葉を発した人が、どのような想い・考え…像を、この「人馬一体」で表現したかを読み感じ取れるかどうかです。
それを読み・感じ取るには、相手と自分の会話の初めからの流れを正しく掴めて像として描けているか、どうかです。
目的意識との一致も必要です。
「人馬一体」という事実的な像を描きたいのか?
その人が「人馬一体」に込めた想い・考えを理解したいのか?
それとも、ただの言葉の使い間違いなのか?の判断も…
その目的によって、観念論的な見方で、間違いない時もあるし…
逆に、唯物論的であるが故に、間違いもあり得る…かな?
またまた…長々とすみません、でした。