今年になって気分一新のために財布を買い換えたのであるが、その財布を先日紛失してしまった。
財布を無くしたことより、自身のうっかりに自己嫌悪でいっぱいになってしまった。とは言え、気分一新のための財布購入であったので、再度の財布選び、購入を行った。
財布を紛失しての再度の財布購入であるので、同じものでは意味がない!との思いで、財布の形状だけでなく、財布の素材である革について、革の歴史、革の種類、世界の革のメーカーについて等々、調べた。また、1万円程度のものから数万円以上もするものまで、実際に財布を手にしてみた。
結果として財布紛失のおかげで、財布について、特に革について随分と詳しくなり、革製品の良し悪しを見る眼も養えたと思う。失敗は成功のもと。を実感する。
それはさておき、「書くことは考えることである。」について。
昨日のブログ記事、本来ならばもう少ししっかりと詳しく、かつ、中身を深めて書きたかった。書くべきでなかった。との思いが更新中からあった。「医学の復権」に説かれ(解かれ)る学問体系にかかわっての必須のもろもろのことは、東洋医学・鍼灸の世界ではけっして説かれることの無いものであるだけに。である。
しかしながら、昨日は自身にとっての特別な日であったので、どうしてもブログの更新を!との思いで半ば無理やりにブログ記事として書いた。
それゆえにブログ更新した後も、書いた内容の成否について、一晩中あれこれと不足な点が思い浮かんできた。特に「医学の復権」を「凄い書!」と持ち上げるばかりで、なんら事実の提示がなされていない。という点は、どうしても加筆修正する必要があるとの思いになって、早朝に書き加えた。
そういう意味では昨日のブログ記事は、あまり出来の良いものではないと思う。
しかし、である。このことを自身のアタマと書く実力の養成のプロセスという観点からとらえるならば、うまく書けなかったからこその、駄文を公にしてしまった。と忸怩たる思いがあったからこその、書いたことにかかわる思いの深まりがったのであるし、そこから学ぶことがあったのであるし、少しでもの進歩があったのだと思う。
一般的には、人間は上手くいったと思うこと自信のあることは、それ以上に深めて行くことのない、深めていくことのできない存在である。と思う。
そういう意味では上手く書けないことを書くことこそが本当の学びの過程であり、「書くことは考えることである。」という金言は、そういうことでもあるのだと思えた。
そういう観点からは、「ときめかない」記事をこそ、しっかりと書いていかねばならない。と思えた。
財布を無くしたことより、自身のうっかりに自己嫌悪でいっぱいになってしまった。とは言え、気分一新のための財布購入であったので、再度の財布選び、購入を行った。
財布を紛失しての再度の財布購入であるので、同じものでは意味がない!との思いで、財布の形状だけでなく、財布の素材である革について、革の歴史、革の種類、世界の革のメーカーについて等々、調べた。また、1万円程度のものから数万円以上もするものまで、実際に財布を手にしてみた。
結果として財布紛失のおかげで、財布について、特に革について随分と詳しくなり、革製品の良し悪しを見る眼も養えたと思う。失敗は成功のもと。を実感する。
それはさておき、「書くことは考えることである。」について。
昨日のブログ記事、本来ならばもう少ししっかりと詳しく、かつ、中身を深めて書きたかった。書くべきでなかった。との思いが更新中からあった。「医学の復権」に説かれ(解かれ)る学問体系にかかわっての必須のもろもろのことは、東洋医学・鍼灸の世界ではけっして説かれることの無いものであるだけに。である。
しかしながら、昨日は自身にとっての特別な日であったので、どうしてもブログの更新を!との思いで半ば無理やりにブログ記事として書いた。
それゆえにブログ更新した後も、書いた内容の成否について、一晩中あれこれと不足な点が思い浮かんできた。特に「医学の復権」を「凄い書!」と持ち上げるばかりで、なんら事実の提示がなされていない。という点は、どうしても加筆修正する必要があるとの思いになって、早朝に書き加えた。
そういう意味では昨日のブログ記事は、あまり出来の良いものではないと思う。
しかし、である。このことを自身のアタマと書く実力の養成のプロセスという観点からとらえるならば、うまく書けなかったからこその、駄文を公にしてしまった。と忸怩たる思いがあったからこその、書いたことにかかわる思いの深まりがったのであるし、そこから学ぶことがあったのであるし、少しでもの進歩があったのだと思う。
一般的には、人間は上手くいったと思うこと自信のあることは、それ以上に深めて行くことのない、深めていくことのできない存在である。と思う。
そういう意味では上手く書けないことを書くことこそが本当の学びの過程であり、「書くことは考えることである。」という金言は、そういうことでもあるのだと思えた。
そういう観点からは、「ときめかない」記事をこそ、しっかりと書いていかねばならない。と思えた。
私も一昨年、財布を落としてしまいました。
結果的には、親切な人が交番に翌日届けてくれたのですが…
その時、普段と違って落ち着きの無かった自分に気付きました。
それは、何か変った事があった!という事ではなく、
ただただ…落ち着きが無かったのです。
私の勝手な解釈ですが…
私の認論的な日々の実践の量質転化化過程の過渡期・不安定な時期だったのかも?です。
何故なら、そのような感じの認識になった事は以前にも数回あったので…そう思ったのです。
なので…もしかして…その事も新たな変化・量質転化化の兆しなのかもしれませんよ…
以下の記述には、超同感・共感しました。
>一般的には、人間は上手くいったと思うこと自信のあることは、それ以上に深めて行くことのない、深めていくことのできない存在である。と思う。
>そういう意味では上手く書けないことを書くことこそが本当の学びの過程であり、「書くことは考えることである。」という金言は、そういうことでもあるのだと思えた。
>そういう観点からは、「ときめかない」記事をこそ、しっかりと書いていかねばならない。と思えた。
弁証法的実力の量質転化化の兆しであれば、こんな嬉しい事はない。と思います。それならば全財産を失っても!と思いますw
少なくとも、新たな発展のきっかけに転化すべく、取り組みたいと思います。