新たに始めた、漢文と点字の学びについて。
漢文の学びを始めた。案ずるより産むが易しとの思いする。
東洋医学の古典を理解していくためにはは漢文の素養が必須であるとの思いになってきて、これまで敬遠していた漢文の学びを、「基礎からの漢文」(江連隆著 前野直彬監修 数研出版)を使って始めた。
始めるまでは、古典を原文で学ぶということは難しいと聞かされていたので、ある意味、清水の舞台から跳び降りるくらいの覚悟で始めた漢文の学びであったのだが、実際に学び始めてみると中高生のころに学んだことを未だに覚えていて、また感情的にも漢文は好きな科目であったので、それほどに難しさを感じず、というよりも、李白や杜甫の漢詩を読み、論語の一節を読みすることは楽しいものであったし、「オコト点」や「テニヲハ」の由来を知ることができたり、訓読ということが日本人の大発明であったということを知ることができたりと、「へえ〜〜〜!」の連続であった。
日本文化の源流の一つである中国古代文化への学びの一つである漢文の学びは、自身の日本文化への理解を深めてくれるものでもあると実感しつつの楽しい学びであった。引き続き学んでいきたいと思う。
点字について学び、読む?ことを試みた。自身の指先の感覚の鈍さを思い知らされた。
鍼灸を学び始めると、指圧、マッサージ等の狭義の手技療法術よりも、指先の感覚の鋭さを求められること、例えば取穴、例えば刺鍼、例えば脈診、があり、人間の指先の感覚の鋭さの一般的な上限というものをイメージしておきたいとの思いとなっていって、かねてより視覚障害者は指先の感覚が通常の常識をはるかに超えたものがある。と聞いたことがあるのを想起して、視覚障害者の指先の感覚の鋭さというものを実感したくて点字を読んで?みることを試みた。
実際に点字の文章を触ってみると、最初は、点の数の多い少ないは分かっても、六つの点の一つ一つをしっかりと判別することはとても出来ず、点の列を追うことさえ、眼の助けを借りなければ不可能であった。が、この2日ほど折に触れて触ってみることを続けることで、次第に六つの点の判読は出来るようにはなっていったのではあるが・・・・・・。
ともあれ、視覚障害者の指先感覚の鋭さというものが、我々晴眼者のレベルをはるかに超えたレベルにあることの一端を実感できたと思う。
また、このことで、日本では脈診が中国ほどに発展しなかったという理由が、それゆえ脈診なるものの実態が、一般的にであるが分かった。と思える。
端的には、脈診とは指先の感覚の問題ではなくて、対象を視るカン・コツレベルの論理的な実力なのではと思えた。これを例えるならば、ベテランの助産婦さんが赤ちゃんの泣き声だけで、赤ちゃんの求めていることが分かるとする類のものなのではと思える。いずれ改めて詳細にと思う。
点字、中途視覚障害者の場合は、習得に早くて8か月、場合によっては、2年近く、それ以上かかると習得を諦める場合すらあるらしい。
漢文の学びを始めた。案ずるより産むが易しとの思いする。
東洋医学の古典を理解していくためにはは漢文の素養が必須であるとの思いになってきて、これまで敬遠していた漢文の学びを、「基礎からの漢文」(江連隆著 前野直彬監修 数研出版)を使って始めた。
始めるまでは、古典を原文で学ぶということは難しいと聞かされていたので、ある意味、清水の舞台から跳び降りるくらいの覚悟で始めた漢文の学びであったのだが、実際に学び始めてみると中高生のころに学んだことを未だに覚えていて、また感情的にも漢文は好きな科目であったので、それほどに難しさを感じず、というよりも、李白や杜甫の漢詩を読み、論語の一節を読みすることは楽しいものであったし、「オコト点」や「テニヲハ」の由来を知ることができたり、訓読ということが日本人の大発明であったということを知ることができたりと、「へえ〜〜〜!」の連続であった。
日本文化の源流の一つである中国古代文化への学びの一つである漢文の学びは、自身の日本文化への理解を深めてくれるものでもあると実感しつつの楽しい学びであった。引き続き学んでいきたいと思う。
点字について学び、読む?ことを試みた。自身の指先の感覚の鈍さを思い知らされた。
鍼灸を学び始めると、指圧、マッサージ等の狭義の手技療法術よりも、指先の感覚の鋭さを求められること、例えば取穴、例えば刺鍼、例えば脈診、があり、人間の指先の感覚の鋭さの一般的な上限というものをイメージしておきたいとの思いとなっていって、かねてより視覚障害者は指先の感覚が通常の常識をはるかに超えたものがある。と聞いたことがあるのを想起して、視覚障害者の指先の感覚の鋭さというものを実感したくて点字を読んで?みることを試みた。
実際に点字の文章を触ってみると、最初は、点の数の多い少ないは分かっても、六つの点の一つ一つをしっかりと判別することはとても出来ず、点の列を追うことさえ、眼の助けを借りなければ不可能であった。が、この2日ほど折に触れて触ってみることを続けることで、次第に六つの点の判読は出来るようにはなっていったのではあるが・・・・・・。
ともあれ、視覚障害者の指先感覚の鋭さというものが、我々晴眼者のレベルをはるかに超えたレベルにあることの一端を実感できたと思う。
また、このことで、日本では脈診が中国ほどに発展しなかったという理由が、それゆえ脈診なるものの実態が、一般的にであるが分かった。と思える。
端的には、脈診とは指先の感覚の問題ではなくて、対象を視るカン・コツレベルの論理的な実力なのではと思えた。これを例えるならば、ベテランの助産婦さんが赤ちゃんの泣き声だけで、赤ちゃんの求めていることが分かるとする類のものなのではと思える。いずれ改めて詳細にと思う。
点字、中途視覚障害者の場合は、習得に早くて8か月、場合によっては、2年近く、それ以上かかると習得を諦める場合すらあるらしい。