気血津液の病理と病証、まず、津液の病理と病証からまとめて行くこととする。
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「旧・東概」では、津液が病むということを大きく二つに分ける。一つは津液の不足であり、もう一つは津液の滞りである。
前者の津液の不足の原因にも二つあり、摂取・生成の不足と消耗・排泄の過多である。
病証としても二つ、身体の乾燥と尿量の減少、便秘(つまり排泄の減少)があげられる。
後者の津液の滞りの原因にも二つあり、津液の代謝・運行にかかわる臓腑(肺、脾、腎、膀胱、三焦等)そのものの機能失調と、それらの臓腑間の協調関係の失調である。
病証(病理か?)としても二つ、一つは滞りそのものの病証で、体表部での津液の滞りは水腫となり、腹中ならば鼓張となるが、停滞した津液は、やがて痰飲や水湿を形成して行く。
もう一つは、津液が停滞した結果としての病証で、津液が停滞して膀胱に運ばれず、尿として排泄できなくなると体内の水分過多となり水腫が現れ、それによって、心悸亢進、呼吸困難、喘、下痢、関節の屈伸困難(これが病証?)などが起こる。
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以上、津液の病理と病証の項をまとめて見ると、津液の問題を常に二重性として(陰陽として)とらえて分類・整理しようとしていることが視えてくる。
これは、津液の病理と病証の項だけでなく、津液は血との対比の二重性として、血津液は気との対比の二重性として、気血津液は経絡とのあるいは臓腑との対比の二重性において、また、流れる身体(=気血津液)と流れない身体(=経絡、臓腑、器官等)との対比の二重性において、また、人間の身体と病因(外感(邪)、内傷)との対比の二重性において、そして人間を天地自然(四気、病邪等)との対比の二重性において等々、極小から極大に至るまで、二重性においてとらえ分類・整理していっている。
つまりこれが陰陽論であり、東洋医学というものは、世界のあらゆる事物を、従って人間の生理と病理にかかわる事実を、陰陽論という考え方で分類・生理していった結果として生み出されたものであると思う。
それだけに、一般的に、陰陽論=古代中国の弁証法とだけ捉えるのでは不足であるかもしれないとも思うが・・・・・・。
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「旧・東概」では、津液が病むということを大きく二つに分ける。一つは津液の不足であり、もう一つは津液の滞りである。
前者の津液の不足の原因にも二つあり、摂取・生成の不足と消耗・排泄の過多である。
病証としても二つ、身体の乾燥と尿量の減少、便秘(つまり排泄の減少)があげられる。
後者の津液の滞りの原因にも二つあり、津液の代謝・運行にかかわる臓腑(肺、脾、腎、膀胱、三焦等)そのものの機能失調と、それらの臓腑間の協調関係の失調である。
病証(病理か?)としても二つ、一つは滞りそのものの病証で、体表部での津液の滞りは水腫となり、腹中ならば鼓張となるが、停滞した津液は、やがて痰飲や水湿を形成して行く。
もう一つは、津液が停滞した結果としての病証で、津液が停滞して膀胱に運ばれず、尿として排泄できなくなると体内の水分過多となり水腫が現れ、それによって、心悸亢進、呼吸困難、喘、下痢、関節の屈伸困難(これが病証?)などが起こる。
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以上、津液の病理と病証の項をまとめて見ると、津液の問題を常に二重性として(陰陽として)とらえて分類・整理しようとしていることが視えてくる。
これは、津液の病理と病証の項だけでなく、津液は血との対比の二重性として、血津液は気との対比の二重性として、気血津液は経絡とのあるいは臓腑との対比の二重性において、また、流れる身体(=気血津液)と流れない身体(=経絡、臓腑、器官等)との対比の二重性において、また、人間の身体と病因(外感(邪)、内傷)との対比の二重性において、そして人間を天地自然(四気、病邪等)との対比の二重性において等々、極小から極大に至るまで、二重性においてとらえ分類・整理していっている。
つまりこれが陰陽論であり、東洋医学というものは、世界のあらゆる事物を、従って人間の生理と病理にかかわる事実を、陰陽論という考え方で分類・生理していった結果として生み出されたものであると思う。
それだけに、一般的に、陰陽論=古代中国の弁証法とだけ捉えるのでは不足であるかもしれないとも思うが・・・・・・。