認知症への道たる惚けの二重性について、あるいは認知症の二重構造。
惚けるということにも二重性があると思える。一つは、加齢等による実体としての脳細胞の衰えとともにの機能としての認識の実力の低下=惚け。
もう一つは、実体としては正常であるのに自ら望んでの惚けであり、それは機能としての認識の実力の低下への道であり、それとともに正常である実体も歪んでいくことで、本当の惚けとなり、ついには認知症へとなっていくのでは、と思う。
これは例えば、子供が当初は母親を求めて無理にゼイゼイやっていたものが、やがては喘息へとなっていってしまうのと同じくの過程的構造なのでは、と思える。
認知症には、惚ければ頑張らなくて良いから、周囲が憐れんで面倒を見てくれるから、のなりたくてなる認知症があるというのは、かくの如くの構造では、と思える。
以上のことは一般論としてはすでにあちこちで説かれていることである。それゆえ、本来ならば事実から再度抽き出してくることが、別言するならば、しっかりと事実をあげて説くことが必要であり、その作業こそが<再措定>である、と思う。さはさりながら、相手が身近なかたであるだけに……具体性を持っては、なかなかに説き難いとの躊躇いがある。
それよりは、自身の事実で説ける。病気になっていく過程だけでは無しに回復していく過程をも、事実から上がって説いていけると思える「喘息」の問題のほうを、とは思う。
惚けるということにも二重性があると思える。一つは、加齢等による実体としての脳細胞の衰えとともにの機能としての認識の実力の低下=惚け。
もう一つは、実体としては正常であるのに自ら望んでの惚けであり、それは機能としての認識の実力の低下への道であり、それとともに正常である実体も歪んでいくことで、本当の惚けとなり、ついには認知症へとなっていくのでは、と思う。
これは例えば、子供が当初は母親を求めて無理にゼイゼイやっていたものが、やがては喘息へとなっていってしまうのと同じくの過程的構造なのでは、と思える。
認知症には、惚ければ頑張らなくて良いから、周囲が憐れんで面倒を見てくれるから、のなりたくてなる認知症があるというのは、かくの如くの構造では、と思える。
以上のことは一般論としてはすでにあちこちで説かれていることである。それゆえ、本来ならば事実から再度抽き出してくることが、別言するならば、しっかりと事実をあげて説くことが必要であり、その作業こそが<再措定>である、と思う。さはさりながら、相手が身近なかたであるだけに……具体性を持っては、なかなかに説き難いとの躊躇いがある。
それよりは、自身の事実で説ける。病気になっていく過程だけでは無しに回復していく過程をも、事実から上がって説いていけると思える「喘息」の問題のほうを、とは思う。