MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

卒業研究の新たな構想(2)〜統計学的な研究とデータ、サンプル数の問題〜

2017-03-02 14:18:40 | 卒業研究(耳鍼,統計学)
「卒業研究の新たな構想(1)」からの続き。

前回は、自身のその時点での問題意識であり、かつ鍼灸学校入学以来の鍼灸・東洋医学の学びを総括するという意味での卒業研究の構想である「東洋医学・鍼灸を人類の精神の歴史から視る」ということが担当教員から却下され、思案した結果として「統計学的研究」(その実態は、『統計学という名の魔法の杖』(現代社白鳳選書17)を現実の問題に適用してみること)を目的として、卒業研究=グループ研究に臨み、「耳鍼の減量効果の統計学的な検証」ということに決まった。というところまでであった。

そのような経緯で「耳鍼の減量効果の統計学的な検証」ということが始まったのではあるが、このグループ研究は当初から大きな矛盾を孕むものであった。それは端的には、自身と担当教員は統計学的な研究、検証との思いがあった(が、統計学的ということにかかわって自身と担当教員では大きな落差があり、その矛盾は後々問題化していくのだが、それは別に説くとして……)のに対して、研究グループの同級生諸氏の大勢としては、統計学的研究では無くて、単に実験結果のレポート=事例報告で良いではないか!ということであった。(同級生諸氏の持つであろう「統計学」というもののイメージからは仕方がない、当然である、とは思うが……)

かくのごときの、二重の矛盾を孕む形での、「耳鍼の減量効果の統計学的な検証」が始まることとなったが、自身の統計学にかかわっての理解の不足もあり、当初の研究のための実験のデザインからしておかしなものとなっていった。

端的には、統計学的な検証をしようとするならば統計学的な実験の仕方が必要なのであるが、そういう意味であり得ない実験の設定の仕方であった。問題点をいくつか挙げれば、①対照群をきちんと設定しない②統計学的に有意差が出るだけの実験期間を設けない③なによりも、実験のサンプル数が決定的に不足している。等があった。

にもかかわらず、自身のその時点での思いとしては、「何せ、グループ研究だから、自身だけがいかに統計学的に!と意気込んでみても……足らざる部分は、自身で補っての実験しか仕方がない。」であり、それでなんとか統計学の学びが出来るとの錯覚があった。ここで、自身で補っていくとは、自身と弟を対照群(耳鍼をしない群)として、自身の体重、睡眠、運動、食の記録を残すということであった。特に体重に関しては、これまで記録して来なかったので、職場での毎朝の体重測定を行った。加えて、弟に頼んで週一体重記録をして送ってもらった。

そしての、後期末試験を終えての卒業研究ゼミが始まり、そこで初めて実験の全容、具体的には耳鍼をおこなっての、おこなわないでの体重測定(体重、筋量、脂肪量等)の結果とアンケート(食、睡眠、運動、ダイエットにかかわる意識等)の結果を知ることとなった。(自身では体重等の測定、アンケートにはほとんどノータッチであった。データさえあれば、との思いから同級生に任せきりであったが、それも今となっては、生の対象を視る機会の放棄であり、不味かったと思える)

ある程度は予想していたものの、耳鍼による体重変動がまったく見られない、サンプルによっては耳鍼をした期間に返って体重が増加するという実験結果であった。のみならず、当初の予想の通りに比較対照群の設定が無いことのゆえに、体重変動が無いということすらが耳鍼の効果が無かったがゆえに。とはいえないというまったく困ったことになってしまっていた。

その時点での自身の卒業研究の構想は、「実験結果データをともかく統計学的な数値に変換して、比較して」であり、「部分的なサンプル数の不足には目を瞑って、の統計学的処理を」であった。

しかしながら、担当教員から比較対照群として自身で集めた「耳鍼をしない体重変動のデータ」は、「サンプル数の少なさのゆえに、データとしては使えない」といわれ、「えー!?そもそもの実験サンプル数が統計学的には無効といって良いほどに少ないのに、なんでここだけサンプル数の少なさに拘泥るの???」との思いはあったが……。

仕方が無いので、また、推計学という方法によっての研究であってもデータ数は20〜50は必要とのこともあるので、統計学的にということを自身の問題として棚上げしての、「担当教員の提示した『アンケートの集計結果』(とアンケート調査結果)からの実験結果の考察(実質は単なる解釈)」ということが、卒業研究の構想となった。

が、「アンケート集計結果」なるものをいくら眺めても、それどころか眺めるほどに、今回の実験結果の持つ意味が分からなくなっていき、結果として「『アンケート集計結果』などから、他人が集計したものなどから考察をおこなおうとするから、訳が分からなくなっていってしまうのだ。そうでは無くて『生のアンケート調査結果』から、考察=対象の構造に分け入ることをすれば良いのだ。要するに、論文を書く、ブログを書くと同じことで、それを卒業研究という形へと少し変えてやれば良いだけなのだ!」と卒業研究の構想が浮かんできた。

しかしながら、上述の内容はまったく正しい、と思えるにもかかわらず、「生のアンケート調査結果」なるものも、事実としては不足であり、それらを含めての様々な一般論からの考察での卒業研究は可能であるだろうが、それは観念論的であり、それではダメなのでは無いか!?との思いとなっていった。

以上が、新たな卒業研究の構想までの、卒業研究の原点からの流れである。


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