近頃、自身の、また他人の事実から、自己の他人化ということの難しさを痛感させられている。
人間には、相手の気持ちが分かる、認識が分かる能力がある、そしてそのことは人間が社会的な存在である以上、何よりもといってもいい程に大事なことである、逆からいえば、相手の気持ちの分からない人は人間としては問題がある、極論すれば人間失格である。
その何よりも大事であるといってもいい「相手の気持ちを分かる」という能力も、人間にあっては創られるものであり、創って行かねばならないものである。
そしてその過程的構造としては、即自→対自→即自対自(ヘーゲル)である、またここの「対自」の過程的構造を「自己の自己化→自己の他人化」と海保先生は説かれ(解かれ)ている。(と思う)
しかしながら、ここは自身で実践してみればわかるごとくに、ヘーゲルの説くところに学んで、「人間というものは、自己の思い、立場だけから物事を(いつまでも)考えていたのでは駄目で、まずは他人の立場から見れるようになって......」とやってみれば、即自→対自と自身の認識を発展させようとしてみれば、分かるごとくに、対自(=自己の他人化)とやってみても当初は、また当分は、対自にはなり得ないで即自のレベルで対自のつもり(=自己の自己化)となるしか無いのであるが、この過渡期の問題が「自己の自己化→自己の他人化」と海保先生が説かれ(解かれ)る認識の発展である、と思う。
ここは、人間の認識というものが「問いかけ的な反映である」以上、避けられないもの、と覚悟して「自己の他人化」に挑み続けるしか無いのだ!と......。
人間には、相手の気持ちが分かる、認識が分かる能力がある、そしてそのことは人間が社会的な存在である以上、何よりもといってもいい程に大事なことである、逆からいえば、相手の気持ちの分からない人は人間としては問題がある、極論すれば人間失格である。
その何よりも大事であるといってもいい「相手の気持ちを分かる」という能力も、人間にあっては創られるものであり、創って行かねばならないものである。
そしてその過程的構造としては、即自→対自→即自対自(ヘーゲル)である、またここの「対自」の過程的構造を「自己の自己化→自己の他人化」と海保先生は説かれ(解かれ)ている。(と思う)
しかしながら、ここは自身で実践してみればわかるごとくに、ヘーゲルの説くところに学んで、「人間というものは、自己の思い、立場だけから物事を(いつまでも)考えていたのでは駄目で、まずは他人の立場から見れるようになって......」とやってみれば、即自→対自と自身の認識を発展させようとしてみれば、分かるごとくに、対自(=自己の他人化)とやってみても当初は、また当分は、対自にはなり得ないで即自のレベルで対自のつもり(=自己の自己化)となるしか無いのであるが、この過渡期の問題が「自己の自己化→自己の他人化」と海保先生が説かれ(解かれ)る認識の発展である、と思う。
ここは、人間の認識というものが「問いかけ的な反映である」以上、避けられないもの、と覚悟して「自己の他人化」に挑み続けるしか無いのだ!と......。