東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

自己の他人化の難しさ〜認識は問いかけ的な反映であるから〜

2018-03-16 13:58:36 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
近頃、自身の、また他人の事実から、自己の他人化ということの難しさを痛感させられている。

人間には、相手の気持ちが分かる、認識が分かる能力がある、そしてそのことは人間が社会的な存在である以上、何よりもといってもいい程に大事なことである、逆からいえば、相手の気持ちの分からない人は人間としては問題がある、極論すれば人間失格である。

その何よりも大事であるといってもいい「相手の気持ちを分かる」という能力も、人間にあっては創られるものであり、創って行かねばならないものである。

そしてその過程的構造としては、即自→対自→即自対自(ヘーゲル)である、またここの「対自」の過程的構造を「自己の自己化→自己の他人化」と海保先生は説かれ(解かれ)ている。(と思う)

しかしながら、ここは自身で実践してみればわかるごとくに、ヘーゲルの説くところに学んで、「人間というものは、自己の思い、立場だけから物事を(いつまでも)考えていたのでは駄目で、まずは他人の立場から見れるようになって......」とやってみれば、即自→対自と自身の認識を発展させようとしてみれば、分かるごとくに、対自(=自己の他人化)とやってみても当初は、また当分は、対自にはなり得ないで即自のレベルで対自のつもり(=自己の自己化)となるしか無いのであるが、この過渡期の問題が「自己の自己化→自己の他人化」と海保先生が説かれ(解かれ)る認識の発展である、と思う。

ここは、人間の認識というものが「問いかけ的な反映である」以上、避けられないもの、と覚悟して「自己の他人化」に挑み続けるしか無いのだ!と......。
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