強揉み名人であるSさんから如何に学ぶべきか、ということは、自身のイメージする東洋医学・医術如何に学ぶべきか、そのものである、と思へる。
本ブログも、三年間の総括をして一区切りつけるべきである。との思いからそこを書き出したものの、書きあぐねて一年以上の年月がたつてしまつている。
「鍼灸問答」と題して、ある程度の鍼灸の問題への自身の答を書いてみたものの、本ブログの題名、主題でもある「鍼灸如何に学ぶべきか」を正面から説いていないとの思いがある。のだが、それを書かないままに来ている。
自身の個人的の忙しさを理由に、本ブログ全体が自身の「鍼灸如何に学ぶべきか」である、と逃げる?のもありかとも思つていたのであるが、先日、強揉み名人であるSさんとの数年ぶりの再会があり、多くの学びがあったことを振り返つてみると、この学びのあり方をそのままに書けば、自身の「鍼灸、東洋医学如何に学ぶべきか」になるであろうとの思いへとなつていつた。
以下、説いていきたい。
Sさんのあり方は、昔ながらの腕の良い職人とでもいふべきものであり、技と術には多くの学ぶべきものがあるものの、理論的には、Sさん自身のカン、コツレベルの論の展開であり、ウソ?といつてもいい、恣意的なレベルの対象の捉え方がある。
そんなSさんから如何に学ぶべきか?端的には、技と術を再措定していくとともに、Sさんの説く恣意的、観念論的理論を、それは本当には、唯物論的にはどういうことなのか?を技と術の再措定とともに措定していくということだろうか。
少しばかり具体的に説けば、腰痛には仙骨脇のこの部分をこの方向に押してやればいいとか腓骨前面を下から辿って指が止まる凹みをゆっくり押さえてやれば腰痛に効くとかの技は、それを自身で出来るように、そのことの理論?としての、ここから神経が三本出ていてとか、踵の骨は二つに割れていてほぐしてやるとその割れ目が出てきて脚が楽になる、とかは、本当にはそれは何なのかといふことを、解剖生理からとらえ返す。というようなことになる。
これと同様の作業を鍼灸、東洋医学に関わって為(成)すことが、自身のイメージする鍼灸(と東洋医学を)如何に学ぶべきかである。
ただ、Sさん個人の技と理論と違って、鍼灸、東洋医学の技と理論は膨大かつ広範囲なものであるから、特に理論に関しては、唯物論、弁証法、認識論の学びが必須のものと思える。
とりあえずの、覚え書。時間が許せばもう少ししっかりと原稿用紙に書いて、ブログ記事としてアップしたいと思う。
本ブログも、三年間の総括をして一区切りつけるべきである。との思いからそこを書き出したものの、書きあぐねて一年以上の年月がたつてしまつている。
「鍼灸問答」と題して、ある程度の鍼灸の問題への自身の答を書いてみたものの、本ブログの題名、主題でもある「鍼灸如何に学ぶべきか」を正面から説いていないとの思いがある。のだが、それを書かないままに来ている。
自身の個人的の忙しさを理由に、本ブログ全体が自身の「鍼灸如何に学ぶべきか」である、と逃げる?のもありかとも思つていたのであるが、先日、強揉み名人であるSさんとの数年ぶりの再会があり、多くの学びがあったことを振り返つてみると、この学びのあり方をそのままに書けば、自身の「鍼灸、東洋医学如何に学ぶべきか」になるであろうとの思いへとなつていつた。
以下、説いていきたい。
Sさんのあり方は、昔ながらの腕の良い職人とでもいふべきものであり、技と術には多くの学ぶべきものがあるものの、理論的には、Sさん自身のカン、コツレベルの論の展開であり、ウソ?といつてもいい、恣意的なレベルの対象の捉え方がある。
そんなSさんから如何に学ぶべきか?端的には、技と術を再措定していくとともに、Sさんの説く恣意的、観念論的理論を、それは本当には、唯物論的にはどういうことなのか?を技と術の再措定とともに措定していくということだろうか。
少しばかり具体的に説けば、腰痛には仙骨脇のこの部分をこの方向に押してやればいいとか腓骨前面を下から辿って指が止まる凹みをゆっくり押さえてやれば腰痛に効くとかの技は、それを自身で出来るように、そのことの理論?としての、ここから神経が三本出ていてとか、踵の骨は二つに割れていてほぐしてやるとその割れ目が出てきて脚が楽になる、とかは、本当にはそれは何なのかといふことを、解剖生理からとらえ返す。というようなことになる。
これと同様の作業を鍼灸、東洋医学に関わって為(成)すことが、自身のイメージする鍼灸(と東洋医学を)如何に学ぶべきかである。
ただ、Sさん個人の技と理論と違って、鍼灸、東洋医学の技と理論は膨大かつ広範囲なものであるから、特に理論に関しては、唯物論、弁証法、認識論の学びが必須のものと思える。
とりあえずの、覚え書。時間が許せばもう少ししっかりと原稿用紙に書いて、ブログ記事としてアップしたいと思う。