暗唱のアタマの働きとブログを書くアタマの働きは、あれかこれかだと思える。
暗唱を止めて、対象に関わっての像を描きかつその像に厚みを持たせる取り組み、併せて、自身の像の中身を深めていく取り組み行った。
具体的には、前者は、木に登ったり、砂利道を裸足で走ったり、また料理を作ったりであり、後者は、ブログを書くための原稿を書くこと、それ以前の原稿を書く中身を思い、考えること。をそう捉え返した。
かくの如くの取り組みを数日続けると、アタマの中に流れていた「経穴のうた」が止まって、再び、ブログが書ける様になって来た。
これは、言葉という像をつなげていく働きへと量質転化しつつあったアタマの働きが、再び、対象に関わっての像を創り、かつその像に厚みを持たせる様なアタマの働きへと量質転化していったからではと思う。
そのことの反面、止まっていた物忘れ?、40代後半から、何かしようとして実行する前にあれこれ他の事を考えていると、「あれ!?何だったか??」となることが再再ある、が再び始まった。
これは、アタマの働きの論理的と知識的は、相入れない。あれかこれかなのだから仕方が無いのではと思う。本当は両立して、上手く使い分けれればいいのだが。そうもいかないというのが現在の実感である。
しかし、である。例えば、変な例えであるが、空手における一撃必倒の技が、本来は寸止め不可能であっても、技の使いかたとしては、寸止め可能であるように、論理的というアタマの働かせ方の使いかたとしては知識的なアタマの働きという事も可能かもしれない。と思う。
遅くても、二年後には鍼灸国家試験に向けて、否応なしに「361穴」の記憶どころでは無い知識的なアタマの働かせ方が求められる可能性が十分にあるので、知識的では無く論理的なアタマの働かせかたのままに国家試験を通過出来れば良いのだが自身のレベルからはそうもいか無い。と思える以上、論理的と知識的との両立をの方法を!とは思う。
暗唱を止めて、対象に関わっての像を描きかつその像に厚みを持たせる取り組み、併せて、自身の像の中身を深めていく取り組み行った。
具体的には、前者は、木に登ったり、砂利道を裸足で走ったり、また料理を作ったりであり、後者は、ブログを書くための原稿を書くこと、それ以前の原稿を書く中身を思い、考えること。をそう捉え返した。
かくの如くの取り組みを数日続けると、アタマの中に流れていた「経穴のうた」が止まって、再び、ブログが書ける様になって来た。
これは、言葉という像をつなげていく働きへと量質転化しつつあったアタマの働きが、再び、対象に関わっての像を創り、かつその像に厚みを持たせる様なアタマの働きへと量質転化していったからではと思う。
そのことの反面、止まっていた物忘れ?、40代後半から、何かしようとして実行する前にあれこれ他の事を考えていると、「あれ!?何だったか??」となることが再再ある、が再び始まった。
これは、アタマの働きの論理的と知識的は、相入れない。あれかこれかなのだから仕方が無いのではと思う。本当は両立して、上手く使い分けれればいいのだが。そうもいかないというのが現在の実感である。
しかし、である。例えば、変な例えであるが、空手における一撃必倒の技が、本来は寸止め不可能であっても、技の使いかたとしては、寸止め可能であるように、論理的というアタマの働かせ方の使いかたとしては知識的なアタマの働きという事も可能かもしれない。と思う。
遅くても、二年後には鍼灸国家試験に向けて、否応なしに「361穴」の記憶どころでは無い知識的なアタマの働かせ方が求められる可能性が十分にあるので、知識的では無く論理的なアタマの働かせかたのままに国家試験を通過出来れば良いのだが自身のレベルからはそうもいか無い。と思える以上、論理的と知識的との両立をの方法を!とは思う。