卒業研究を何故に統計学的に行なわねばならないのか?端的には、統計学の学びということだけではなしに、そのことが対象の究明の方法を問うこと(プラトン→ アリストテレスのアタマの働かせかた)につながっていくものだからである、と思う。
卒業研究をあくまで統計学的に、ということは自身にとっては『統計学という名の魔法の杖』(本田克也 浅野昌充 神庭純子著 現代社白鳳選書)を実践的に学べるという、大いなる意義のある作業なのであるが、それ以上にの意義があるのではと、統計学的に研究するということを考え続けていると思えてきた。
どういうことかといえば、(卒業)研究を統計学的にということは、その作業の構造には、二重性があると思う。一つは、自身が当初より思っていたごとくの統計学の実践的な学びであるが、それ以上に大事性を持つこととして、(卒業)研究を統計学的にということは、対象の究明の結果を云々しているレベルから一段上がっての、対象の究明の方法を問うというレベル(と成りうる)のアタマの働かせかた(=プラトン→アリストテレスのアタマの働かせかた)である、と思う。
しかしながら、自分以外の、同級生諸氏にとってはどうなのであろうか?彼等にとっては卒業研究を統計学的にということは意味があるのであろうか無いのであろうか?と考えるならば、「自身は統計学なんてものに興味も無いし、先生も、統計学的とは口にすることはあっても、そこまでを要求しないと言っている、仕事も遊びも忙しいし、事例報告で良いのでは?」となると思う。逆からいえば、統計学的に研究するということが、人類の精神の歴史の王道の繰り返しであるところの、対象の究明の結果を云々しているレベルから一段上がっての、対象の究明の仕方を問うレベルの認識活動であるとの思いがなければ、ことさらに、統計学的に卒業研究を!とはなっていく筈もないとも思える。そう思えてきてしまうと、卒業研究を統計学的にということは、自身の問題として、となっていってしまうしかないのだが……。
卒業研究をあくまで統計学的に、ということは自身にとっては『統計学という名の魔法の杖』(本田克也 浅野昌充 神庭純子著 現代社白鳳選書)を実践的に学べるという、大いなる意義のある作業なのであるが、それ以上にの意義があるのではと、統計学的に研究するということを考え続けていると思えてきた。
どういうことかといえば、(卒業)研究を統計学的にということは、その作業の構造には、二重性があると思う。一つは、自身が当初より思っていたごとくの統計学の実践的な学びであるが、それ以上に大事性を持つこととして、(卒業)研究を統計学的にということは、対象の究明の結果を云々しているレベルから一段上がっての、対象の究明の方法を問うというレベル(と成りうる)のアタマの働かせかた(=プラトン→アリストテレスのアタマの働かせかた)である、と思う。
しかしながら、自分以外の、同級生諸氏にとってはどうなのであろうか?彼等にとっては卒業研究を統計学的にということは意味があるのであろうか無いのであろうか?と考えるならば、「自身は統計学なんてものに興味も無いし、先生も、統計学的とは口にすることはあっても、そこまでを要求しないと言っている、仕事も遊びも忙しいし、事例報告で良いのでは?」となると思う。逆からいえば、統計学的に研究するということが、人類の精神の歴史の王道の繰り返しであるところの、対象の究明の結果を云々しているレベルから一段上がっての、対象の究明の仕方を問うレベルの認識活動であるとの思いがなければ、ことさらに、統計学的に卒業研究を!とはなっていく筈もないとも思える。そう思えてきてしまうと、卒業研究を統計学的にということは、自身の問題として、となっていってしまうしかないのだが……。