昨日のリハビリテーションの授業で、日本のPTの起源について教えていただいた。原点を知らなければ本当のことは分からない。ということ実感した。
障害の階層的捉えかたとして、機能障害→能力低下→社会的不利(国際障害分類Icidh)、であったものが、心身機能→活動→参加(国際生活機能分類Icf)へとなっており、これらは事実としては同じことだが、そのスポットライトの当てかたが違うのだと理解した。
また授業の中で、日本のPTは病院でリハビリテーションを行なっていた柔整師と鍼灸師が、いわば昇格するという形でPTという資格を与えられた。だから日本のPTは、手技療法=マッサージ等を異常なまでに毛嫌いし、拒絶した。結果として現在のPT=運動療法という図式が出来上がったのだと。
そうお聞きして、現在のPTの治療のありかたが何故にそうなのかということが、納得レベルで分かれた。と思える。これまた、原点に立ち返ることの意義である。と思える。
それとともに、当初のPTとなっていった柔整師、鍼灸師が手技による施術を毛嫌いしたのは、手技療法を行う=按摩=治療で無く慰安と患者に捉えられるということであり、それは自身が低く見られることであり、それがどうしても許せない!というプライドの現れであったのだと思える。
極端なまでの手技療法の拒絶の是非はともかくとして、その高きプライドには学ばねばならない。と思う。
障害の階層的捉えかたとして、機能障害→能力低下→社会的不利(国際障害分類Icidh)、であったものが、心身機能→活動→参加(国際生活機能分類Icf)へとなっており、これらは事実としては同じことだが、そのスポットライトの当てかたが違うのだと理解した。
また授業の中で、日本のPTは病院でリハビリテーションを行なっていた柔整師と鍼灸師が、いわば昇格するという形でPTという資格を与えられた。だから日本のPTは、手技療法=マッサージ等を異常なまでに毛嫌いし、拒絶した。結果として現在のPT=運動療法という図式が出来上がったのだと。
そうお聞きして、現在のPTの治療のありかたが何故にそうなのかということが、納得レベルで分かれた。と思える。これまた、原点に立ち返ることの意義である。と思える。
それとともに、当初のPTとなっていった柔整師、鍼灸師が手技による施術を毛嫌いしたのは、手技療法を行う=按摩=治療で無く慰安と患者に捉えられるということであり、それは自身が低く見られることであり、それがどうしても許せない!というプライドの現れであったのだと思える。
極端なまでの手技療法の拒絶の是非はともかくとして、その高きプライドには学ばねばならない。と思う。