東洋医学の成立過程について考えている。事実と事実の解釈をしっかりと分け切る実力の必要性痛感する。
「旧・東概」の病理と病証の項のまとめを行なっていく中で、病証として述べられている、悪寒、発熱、出血、髪に艶が無い等々の症状については、事実と言って良い。と思う。
それに対して病理の部分は、例えば、気虚、気滞、血虚、血熱等々は、想像・空想の部分が相当にあるのでは、と思える。
もっと言えば、日常生活の事実と病の事実の積み重ねから、さらに、そのことに重ねての空想・想像に基づいての治療の事実の積み重ね(ここに陰陽五行論が絡んでくるのではとも思う)から、次第に見えてきた病の構造と、経験的には、それ以上の深まりを持ちようがなく、空想・想像のままにとどまっているものとが、あるのではと思う。
それらの、事実と事実の解釈とを、しっかりと分け切る実力を持たないから、「旧・東概」の病理と病証のまとめを行なっていっても、常に、自身のやっていることに違和感を覚えることとなってしまっているのではと思う。
引き続き考えて、それなりに整理してから、気血津液の病理と病証へと入っていきたいと思う。
「旧・東概」の病理と病証の項のまとめを行なっていく中で、病証として述べられている、悪寒、発熱、出血、髪に艶が無い等々の症状については、事実と言って良い。と思う。
それに対して病理の部分は、例えば、気虚、気滞、血虚、血熱等々は、想像・空想の部分が相当にあるのでは、と思える。
もっと言えば、日常生活の事実と病の事実の積み重ねから、さらに、そのことに重ねての空想・想像に基づいての治療の事実の積み重ね(ここに陰陽五行論が絡んでくるのではとも思う)から、次第に見えてきた病の構造と、経験的には、それ以上の深まりを持ちようがなく、空想・想像のままにとどまっているものとが、あるのではと思う。
それらの、事実と事実の解釈とを、しっかりと分け切る実力を持たないから、「旧・東概」の病理と病証のまとめを行なっていっても、常に、自身のやっていることに違和感を覚えることとなってしまっているのではと思う。
引き続き考えて、それなりに整理してから、気血津液の病理と病証へと入っていきたいと思う。