八綱弁証について。認識論的に考えることの必要性感じる。
八綱弁証とは、表裏、寒熱、虚実、陰陽を四診(望診、聞診、問診、切診)によって弁証するということ、と教わる。また、表裏、寒熱、虚実から陰陽を判断するとも教わる。
しかしながら、認識というものは、対象の構造に分け入るということは一般的に、一般論→現象論(具体論?)→構造論→本質論という過程的構造を持つものであるから、八綱弁証も、一般論としての陰陽としての把握から、患者の具体へ下りて具体を論じる中でその構造へと分け入っての構造論(表裏、寒熱、虚実)へ上がって、さらに構造論から再度、本質論としての陰陽へ上がるという過程的構造を、弁証法的にいえば、陰陽→(四診→表裏、寒熱、虚実)→陰陽という否定の否定の構造を持たせるべきなのでは、と思える。
ここは、認識論的に、像の発展の問題として考えてやることが必要であるのだと思えるが……。
八綱弁証とは、表裏、寒熱、虚実、陰陽を四診(望診、聞診、問診、切診)によって弁証するということ、と教わる。また、表裏、寒熱、虚実から陰陽を判断するとも教わる。
しかしながら、認識というものは、対象の構造に分け入るということは一般的に、一般論→現象論(具体論?)→構造論→本質論という過程的構造を持つものであるから、八綱弁証も、一般論としての陰陽としての把握から、患者の具体へ下りて具体を論じる中でその構造へと分け入っての構造論(表裏、寒熱、虚実)へ上がって、さらに構造論から再度、本質論としての陰陽へ上がるという過程的構造を、弁証法的にいえば、陰陽→(四診→表裏、寒熱、虚実)→陰陽という否定の否定の構造を持たせるべきなのでは、と思える。
ここは、認識論的に、像の発展の問題として考えてやることが必要であるのだと思えるが……。