「押し手」いついて考えた。「すべては疑いうる」(マルクス)との言の意義、実感する。
清潔という観点からは、「押し手」で鍼に触れない方が良いのでは無いか?との思いつきから、「押し手」で鍼に触れ無いで鍼を打つことを工夫してみた。結果として、条件によっては(鍼の長さ、太さ、材質によっては)そのことは可能ではあったが、それ以上に「押し手」でしっかりと鍼を支え無いデメリットのほうが大きいと感じ、改めて「押し手」の意義を考えることとなった。
鍼の学びの最初から、鍼は「押し手」をしっかりとつくって鍼を安定させて打つものと教えられ、そのようにして鍼を打っていたので、そもそも「押し手」とは何か?と改めて考えて見ることが無かったのであるが、今回、鍼に触れ無い=鍼を「押し手」でしっかりと支え無い「押し手」を試すことで、「押し手」の必要性、大事性が実感され、改めて、「押し手」とは何か?いかにあるべきか?等々と、本来なら最初に思わねばなら無いことをあらためて考えさせられた。
そう考えてみると否応無しに、「押し手」を歴史的形態において考えることとなる。つまり、「押し手」というものも、他のあらゆる技と同じくに、この世界に最初から存在したものでは無しに、人類がなんらかの必要性から誕生させ、それを発展させてきたものであるのだから、まずは「押し手」の無い時代の鍼術と「押し手」の誕生してからの鍼術とをその対比において視ることで、「押し手」は何のために生まれてきたのか、その目的からすればどのような構造を持つものなのか、持たせるべきものなのか、ということぐらいは考えねばなら無い。との思いとなった。
要するに、存在するものを、あたかも最初からあるもののように思ってしまったのでは、その本来の姿は見えてきはしないのだ、「すべては疑いうる」なのだと・・・・・引き続き「押し手」について考え、実践していきたい。
清潔という観点からは、「押し手」で鍼に触れない方が良いのでは無いか?との思いつきから、「押し手」で鍼に触れ無いで鍼を打つことを工夫してみた。結果として、条件によっては(鍼の長さ、太さ、材質によっては)そのことは可能ではあったが、それ以上に「押し手」でしっかりと鍼を支え無いデメリットのほうが大きいと感じ、改めて「押し手」の意義を考えることとなった。
鍼の学びの最初から、鍼は「押し手」をしっかりとつくって鍼を安定させて打つものと教えられ、そのようにして鍼を打っていたので、そもそも「押し手」とは何か?と改めて考えて見ることが無かったのであるが、今回、鍼に触れ無い=鍼を「押し手」でしっかりと支え無い「押し手」を試すことで、「押し手」の必要性、大事性が実感され、改めて、「押し手」とは何か?いかにあるべきか?等々と、本来なら最初に思わねばなら無いことをあらためて考えさせられた。
そう考えてみると否応無しに、「押し手」を歴史的形態において考えることとなる。つまり、「押し手」というものも、他のあらゆる技と同じくに、この世界に最初から存在したものでは無しに、人類がなんらかの必要性から誕生させ、それを発展させてきたものであるのだから、まずは「押し手」の無い時代の鍼術と「押し手」の誕生してからの鍼術とをその対比において視ることで、「押し手」は何のために生まれてきたのか、その目的からすればどのような構造を持つものなのか、持たせるべきものなのか、ということぐらいは考えねばなら無い。との思いとなった。
要するに、存在するものを、あたかも最初からあるもののように思ってしまったのでは、その本来の姿は見えてきはしないのだ、「すべては疑いうる」なのだと・・・・・引き続き「押し手」について考え、実践していきたい。