「古典に還る」とは本当には=認識論的には如何なることなのか?
世界のあらゆる物事は必ず原点(としての構造)があってのそこからの生成発展の結果としての現在である。(二律背反)
それだけに、原点に返ってそこからの辿り返しということは、現在、そして未来を識るには必須の作業である。
しかしながら、その事をしっかりと成し遂げることは至難の技である。
それゆえに、あらゆる専門分野でそれはほとんど成されていない。
何故かならば、認識論(と弁証法)が無いからである。
より具体的には、古典に還っているつもりで、現在の自身の実力から恣意的に古典を見るからである。
認識論的にいえば、相手(=古典)に二重化出来ないからである。本当は自己の他人(=古典)化をしなければならないのに、自己の自己化をして他人化をしたつもりになってしまっているからである。この自己の二重化の二重構造が分からないから、いつまでたっても、自己の他人(古典)化の端緒にもつけず、迷いに迷うしかない、ということになってしまっている。
(覚え書)