食の偏りについて考えるとき、その原点を問う必要性を感じる。
日々、自身のかかわる相手は「患者」=何らかの運動器官の病氣を持つという特殊性を一般性として持つ方である、という特殊性からか事実を確認すると食の(生活過程の)偏りを持つという一般性がある。
それゆえ、健康を維持したり、病氣から回復したりしていくために生活過程を整えること、食と睡眠と運動を整えることの大事性を説くことを常とするのであるが、どういうわけか(当然のこととして?)「患者」というものは、病氣が治るということを熱心に願うにもかかわらず、病気の大元である生活過程の乱れ・偏りを整えることには熱心ではない、どころか運動・睡眠についてはその人なりになのであるが、食に関してはほとんどの「患者」が、「言われることはわかるけれども……」となる。
その「患者」の認識を端的には、「食の好み=偏りは個性であり、産まれながらのものである」という観念論的発想である。それゆえに「食の好みは変えられない」であり「変えるくらいなら治らなくても仕方ない」となっていってしまう。
しかしながら、食の好みとは創られたものであり、創られるものである。(詳細には、南郷先生が説かれていたと思うが……)それゆえ唯物論的に、人間は創られて人間となる存在であり、食の好みもまた……との理解があれば、「食の好みは変えられない」とはならず、「創られたものを変えるには如何にすれば良いのか」となっていかねばならないはずである。にもかかわらず、現在の自身の実力では……。
日々、自身のかかわる相手は「患者」=何らかの運動器官の病氣を持つという特殊性を一般性として持つ方である、という特殊性からか事実を確認すると食の(生活過程の)偏りを持つという一般性がある。
それゆえ、健康を維持したり、病氣から回復したりしていくために生活過程を整えること、食と睡眠と運動を整えることの大事性を説くことを常とするのであるが、どういうわけか(当然のこととして?)「患者」というものは、病氣が治るということを熱心に願うにもかかわらず、病気の大元である生活過程の乱れ・偏りを整えることには熱心ではない、どころか運動・睡眠についてはその人なりになのであるが、食に関してはほとんどの「患者」が、「言われることはわかるけれども……」となる。
その「患者」の認識を端的には、「食の好み=偏りは個性であり、産まれながらのものである」という観念論的発想である。それゆえに「食の好みは変えられない」であり「変えるくらいなら治らなくても仕方ない」となっていってしまう。
しかしながら、食の好みとは創られたものであり、創られるものである。(詳細には、南郷先生が説かれていたと思うが……)それゆえ唯物論的に、人間は創られて人間となる存在であり、食の好みもまた……との理解があれば、「食の好みは変えられない」とはならず、「創られたものを変えるには如何にすれば良いのか」となっていかねばならないはずである。にもかかわらず、現在の自身の実力では……。