気と血、津液とは、明らかによって立つものが異なる。と思う。
身体の中を流れるものを「気の類」と称する。具体的には気、血、津液をいうのだが、気血津液と三つを並列して、一つのものの如く呼ぶこともある。
しかしながら、気と血、津液とは明らかによって立つものが異なる。
血と津液は、実体としてある血液と血液以外の体液の実体と機能が、その大元である。
それに対して、気は、まず働きの認識があって、気という認識が生まれ、働きがあるから、実体もある。となっていっての、気の機能と実体である。とその成立過程の違いを想象することができる。
しかし、である。このように気血津液の成立過程を想象することは、古代中国の人類の精神を、現代の人類の精神のレベルと同じものとして捉えてしまう誤謬である。と思える。
子供の言動を大人のレベルと同じとしてしまっては、子供の理解が歪んでしまう様に、古代中国の人類の精神を、現代の人類の精神のレベルと同じものとしてしまっては、その理解が歪んでしまうのでは、と思う。
端的には、古代中国の人類は、現代から約二千年も前に、実体と機能をはっきりと区別し得ていたのだろうか?また、機能は実体の機能である。との認識を持ち得ていたのだろうか?と思う。
人類の精神の歴史=哲学の歴史に、しっかりと尋ねること無しには、この問題は、分かりようもない。と思う。
引き続き考えていきたい。
身体の中を流れるものを「気の類」と称する。具体的には気、血、津液をいうのだが、気血津液と三つを並列して、一つのものの如く呼ぶこともある。
しかしながら、気と血、津液とは明らかによって立つものが異なる。
血と津液は、実体としてある血液と血液以外の体液の実体と機能が、その大元である。
それに対して、気は、まず働きの認識があって、気という認識が生まれ、働きがあるから、実体もある。となっていっての、気の機能と実体である。とその成立過程の違いを想象することができる。
しかし、である。このように気血津液の成立過程を想象することは、古代中国の人類の精神を、現代の人類の精神のレベルと同じものとして捉えてしまう誤謬である。と思える。
子供の言動を大人のレベルと同じとしてしまっては、子供の理解が歪んでしまう様に、古代中国の人類の精神を、現代の人類の精神のレベルと同じものとしてしまっては、その理解が歪んでしまうのでは、と思う。
端的には、古代中国の人類は、現代から約二千年も前に、実体と機能をはっきりと区別し得ていたのだろうか?また、機能は実体の機能である。との認識を持ち得ていたのだろうか?と思う。
人類の精神の歴史=哲学の歴史に、しっかりと尋ねること無しには、この問題は、分かりようもない。と思う。
引き続き考えていきたい。