気血津液の病とは、一般的には、気血津液の流れの異常から病へであり、その結果としての臓腑、器官、組織等の病んで行くことである。これは、河の流れとその河の流れで潤される河岸の田畑、農作物をイメージしていただければ理解しやすいかと思う。
気血津液の病とは、一般的には流れの異常から病への過程とその結果としての臓腑、器官、組織等の病んで行くことであるが、構造的には二つある。一つは気血津液の(量的なあるいは質的な)不足していくことの結果であり、もう一つは気血津液の流れの滞っていくことの結果である。
前者は、気血津液の生成が不足するか消耗過多か、あるいは機能減退により、気血津液の流れが量的あるいは質的に不足していって、気血津液の本来の働きができない状態となっていくのであり、その結果の臓腑、器官、組織等の病んで行くことである。
これは例えば、河の水の流れが不足していって枯れかかっている、あるいは水が汚染されていっている状態をイメージしていただければよい。(これが気血津液の異常から病)併せて、河の流れの恩恵で潤されていた田畑が干上がっていってしまったり、汚染されていってしまって農作物が育たない、育てない状態をイメージしていただければと思う。(これが結果としての臓腑、器官、組織等の異常から病。)
後者は、なんらかの原因で気血津液の流れが妨げられていっている状態であり、その結果としての気血津液の過剰になっていったりや不足していくことによる、あるいは滞っていくことによっての気血津液の変質していくことによる、臓腑、器官、組織等の病んでいくことである。
これは、前出の河の流れの例で言えば、河の流れが狭まっていったり、堰き止められたりした状態である。結果として、川幅が狭くなっていったり、堰き止められたりした箇所の手前では、水が溢れかえっていって水害となり、その下流では水不足していくこととなる。また、堰き止められ続けた水は淀んで腐っていくことにもなる。(これが気血津液の異常から病)併せて、そのことによっての田畑への被害、農作物が流されたり水浸しで腐っていったり、水不足で枯れていったりをイメージしていただければと思う。(これが結果としての臓腑、器官、組織等の異常から病。)
「旧・東概」を読んでまとめていっての自身の当初のイメージは、気血津液の病とは、気血津液自体の病が問題になるのではなく、気血津液の異常が臓腑、器官、組織の病を引き起こしていく。というものであった。
しかしながら、確かに一般的には気血津液の異常から病へとなっていくことは、臓腑、器官、組織の問題となっていって初めて問題となっていくのであるが、気血津液の病と臓腑、器官、組織の病について、考えていくと、気血津液にも異常から病へがあり、臓腑、器官、組織にも異常から病へがある。
それゆえ、気血津液の異常による臓腑、器官、組織の変化には異常から病へがあり、気血津液の異常から病になっていくことよる臓腑、器官、組織の変化にも異常から病へがあり、気血津液が病んでしまった結果としての臓器、器官、組織の変化にも異常から病へがあるという、気血津液と臓腑、器官、組織の相対的独立の関係においての異常から病への過程性がある。
結果として、気血津液の正常から異常へとなっていくことから始まった病は、臓腑、器官、組織の異常を引き起こしていって、それが病へとなっていくことによって、気血津液の正常から異常へ異常から病へという過程を進行させるとともに、そのことによって一層、臓腑、器官、組織の異常から病への過程も進行していき、結果として気血津液も臓腑、器官、組織も病んでしまった状態へとなっていくという、二重の過程性が相対的独立の関係性から対立物の統一へ、相互浸透へと深化していっての正常から異常へ異常から病へがある。と思えるので、昨夜アップしたものを加筆・変更した。パソコン画面を見ての加筆・変更であるので思い、考えが深まっていかない面もあって、この内容では不十分であるとも思う。
これは、なによりも自身の中でしっかりと整理されていない故なのである。と思えるが、気・血・津液の病を、それぞれに独立に検討していく過程でしっかりと整理していくことで明確にできれば、と思う。
とりあえずは、気血津液の病んでいくことと臓腑、器官、組織の病んでいくこととが、相対的独立かつ対立物の統一、そして相互浸透の過程で進行していくことを、河の流れと河の流れによって養われている田畑、農作物でイメージしていただければと思う。
以上を前説として、次回からは、「気の病理と病証」に入っていきたい。
気血津液の病とは、一般的には流れの異常から病への過程とその結果としての臓腑、器官、組織等の病んで行くことであるが、構造的には二つある。一つは気血津液の(量的なあるいは質的な)不足していくことの結果であり、もう一つは気血津液の流れの滞っていくことの結果である。
前者は、気血津液の生成が不足するか消耗過多か、あるいは機能減退により、気血津液の流れが量的あるいは質的に不足していって、気血津液の本来の働きができない状態となっていくのであり、その結果の臓腑、器官、組織等の病んで行くことである。
これは例えば、河の水の流れが不足していって枯れかかっている、あるいは水が汚染されていっている状態をイメージしていただければよい。(これが気血津液の異常から病)併せて、河の流れの恩恵で潤されていた田畑が干上がっていってしまったり、汚染されていってしまって農作物が育たない、育てない状態をイメージしていただければと思う。(これが結果としての臓腑、器官、組織等の異常から病。)
後者は、なんらかの原因で気血津液の流れが妨げられていっている状態であり、その結果としての気血津液の過剰になっていったりや不足していくことによる、あるいは滞っていくことによっての気血津液の変質していくことによる、臓腑、器官、組織等の病んでいくことである。
これは、前出の河の流れの例で言えば、河の流れが狭まっていったり、堰き止められたりした状態である。結果として、川幅が狭くなっていったり、堰き止められたりした箇所の手前では、水が溢れかえっていって水害となり、その下流では水不足していくこととなる。また、堰き止められ続けた水は淀んで腐っていくことにもなる。(これが気血津液の異常から病)併せて、そのことによっての田畑への被害、農作物が流されたり水浸しで腐っていったり、水不足で枯れていったりをイメージしていただければと思う。(これが結果としての臓腑、器官、組織等の異常から病。)
「旧・東概」を読んでまとめていっての自身の当初のイメージは、気血津液の病とは、気血津液自体の病が問題になるのではなく、気血津液の異常が臓腑、器官、組織の病を引き起こしていく。というものであった。
しかしながら、確かに一般的には気血津液の異常から病へとなっていくことは、臓腑、器官、組織の問題となっていって初めて問題となっていくのであるが、気血津液の病と臓腑、器官、組織の病について、考えていくと、気血津液にも異常から病へがあり、臓腑、器官、組織にも異常から病へがある。
それゆえ、気血津液の異常による臓腑、器官、組織の変化には異常から病へがあり、気血津液の異常から病になっていくことよる臓腑、器官、組織の変化にも異常から病へがあり、気血津液が病んでしまった結果としての臓器、器官、組織の変化にも異常から病へがあるという、気血津液と臓腑、器官、組織の相対的独立の関係においての異常から病への過程性がある。
結果として、気血津液の正常から異常へとなっていくことから始まった病は、臓腑、器官、組織の異常を引き起こしていって、それが病へとなっていくことによって、気血津液の正常から異常へ異常から病へという過程を進行させるとともに、そのことによって一層、臓腑、器官、組織の異常から病への過程も進行していき、結果として気血津液も臓腑、器官、組織も病んでしまった状態へとなっていくという、二重の過程性が相対的独立の関係性から対立物の統一へ、相互浸透へと深化していっての正常から異常へ異常から病へがある。と思えるので、昨夜アップしたものを加筆・変更した。パソコン画面を見ての加筆・変更であるので思い、考えが深まっていかない面もあって、この内容では不十分であるとも思う。
これは、なによりも自身の中でしっかりと整理されていない故なのである。と思えるが、気・血・津液の病を、それぞれに独立に検討していく過程でしっかりと整理していくことで明確にできれば、と思う。
とりあえずは、気血津液の病んでいくことと臓腑、器官、組織の病んでいくこととが、相対的独立かつ対立物の統一、そして相互浸透の過程で進行していくことを、河の流れと河の流れによって養われている田畑、農作物でイメージしていただければと思う。
以上を前説として、次回からは、「気の病理と病証」に入っていきたい。