「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」という言葉に武士の矜持を感じ、現在の自身を省み……。
『それでもこの世は悪くなかった』(佐藤愛子 文藝春秋)を読んだ。新聞の広告に冒頭に引用した「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」という言葉があって、それが自身の幼少時の父親からよく言われた言葉と重なって興味を持っての、であった。
「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」というのは佐藤愛子さんの父、佐藤紅緑さんの言葉で、他にも「私が小さい頃に、「あ、儲かっちゃった」」というと、その一言だけで、「儲かったなんて言うもんじゃない。それは卑しい人間の言うことだ」と、ひどく叱られました。他の教育はまったくしませんでしたけれども、それだけはうるさかったんです。」というエピソードが紹介されていた。その佐藤愛子さんの父、佐藤紅緑さんのさらに父、佐藤愛子さんからすると祖父は武士(津軽藩士)であった、とも。
「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」という言葉、要するに、「大志を持って、それを基準としての生き様こそが人間らしい生き様であり、自身の目先の損得にとらわれて右顧左眄しての生きかたは、人間としては卑しい、佗しいレベルであるし、そんな人間には大したことが出来るわけがない。」ということである、と思う。
現在、『夢講義』のツボについて説いていただいている部分を読み返している。そこで「ツボ」の謎が解けない(説けない)理由を、「何千年もの間、経絡経穴の問題を研究して来た中国や日本の専門家が、経絡経穴の謎を解けない(説けない)のは、せいぜいが「線路と駅」の譬え話が関の山であるのは、「効く・効かない」という観点から経絡経穴を研究してしまうというミスを犯しているから、「人間とは何か」という観点からの研究がなされないから……」と説いていただいている、と理解したのだが、これも「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」という言葉に繋がってくるのでは、と思える。
自身の鍼灸・東洋医学の学びも「思想性の高みと誇り」を持っての、「人間とは何か」を踏まえてのでなければならない。決して「効く・効かない」レベルの……であってはならないと「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」という佐藤愛子さんの言葉に、痛感された。
『それでもこの世は悪くなかった』(佐藤愛子 文藝春秋)を読んだ。新聞の広告に冒頭に引用した「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」という言葉があって、それが自身の幼少時の父親からよく言われた言葉と重なって興味を持っての、であった。
「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」というのは佐藤愛子さんの父、佐藤紅緑さんの言葉で、他にも「私が小さい頃に、「あ、儲かっちゃった」」というと、その一言だけで、「儲かったなんて言うもんじゃない。それは卑しい人間の言うことだ」と、ひどく叱られました。他の教育はまったくしませんでしたけれども、それだけはうるさかったんです。」というエピソードが紹介されていた。その佐藤愛子さんの父、佐藤紅緑さんのさらに父、佐藤愛子さんからすると祖父は武士(津軽藩士)であった、とも。
「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」という言葉、要するに、「大志を持って、それを基準としての生き様こそが人間らしい生き様であり、自身の目先の損得にとらわれて右顧左眄しての生きかたは、人間としては卑しい、佗しいレベルであるし、そんな人間には大したことが出来るわけがない。」ということである、と思う。
現在、『夢講義』のツボについて説いていただいている部分を読み返している。そこで「ツボ」の謎が解けない(説けない)理由を、「何千年もの間、経絡経穴の問題を研究して来た中国や日本の専門家が、経絡経穴の謎を解けない(説けない)のは、せいぜいが「線路と駅」の譬え話が関の山であるのは、「効く・効かない」という観点から経絡経穴を研究してしまうというミスを犯しているから、「人間とは何か」という観点からの研究がなされないから……」と説いていただいている、と理解したのだが、これも「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」という言葉に繋がってくるのでは、と思える。
自身の鍼灸・東洋医学の学びも「思想性の高みと誇り」を持っての、「人間とは何か」を踏まえてのでなければならない。決して「効く・効かない」レベルの……であってはならないと「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」という佐藤愛子さんの言葉に、痛感された。