現代に生きる私たちが鍼灸・東洋医学を学ぼうとした場合、実際の学びに入る以前に、もしくは実際の学びにはいるとともに大きな障壁が立ち塞がることになる。それは端的には、観念論的な理論を唯物論的な立場から如何に学ぶかということである。
何故かと言えば、科学的が当たり前の現代に生きる私たちの感覚としては<観念論>すなわち迷信や宗教でしかないから、観念論的な理論、考えかたをそうすんなりと受け入れられる筈も無いし、真面目に学べる筈も無いからである。
では私たちは観念論的な理論を持つ鍼灸・東洋医学を前にしていかなる態度を取りえるのか?現在までの鍼灸・東洋医学を学んで来ている先輩たちの態度を視ると大きく二つ存在する。
一つは「鍼灸・東洋医学は科学的な考えかたと相容れないものである!」として、日常のものの考えかたとは別のものであるとして、もしくは観念論的な考えかたに馴染んで行くことで鍼灸治療の実力はついて行くのであるから本当は観念論的な考えかたの方が正しいのだ!として、観念論的なものをそのままに受け入れて鍼灸・東洋医学を学んで行くというありかたである。
もう一つのありかたは「鍼灸・東洋医学の観念論的な理論は迷信である!」として、鍼灸・東洋医学の観念論的な部分は捨て去って、西洋医学的な、解剖生理に従っての鍼灸治療を行なっていこうという行き方である。
しかしながらこの二つの態度では、鍼灸・東洋医学の中国で二千年、日本でも千五百年に及ぶ長い歴史の結果としての文化遺産をまともに受け継げないであろうということは、学問の歴史に尋ねれば明白である。
ではどうすれば良いのか?と言えば、ここでも個体発生は系統発生をくり返すべきであると思える。
学問の歴史・哲学の歴史は大きくは、(素朴な唯物論→)観念論→唯物論としての発展過程を持つ。人類の歴史としても、観念論的な文化遺産を如何に受け継ぐかという問題に直面して対処して来たという過去が存在する。
では人類はその大問題にどう対処して来たかと言えば、大きくは三つの道が存在した。一つは、あくまでそれもでの観念論の立場を守るというありかたである。しかしながらこの道は、観念の世界でだけならば可能であっても、自然科学の発展につれて現実的な世界は科学的?になって行くのであるから、日々の生活は科学の恩恵に浴して、エアコンを使い、車に乗り、テレビやパソコン、スマホを使いとなって行くのであるから、結局は、観念論の立場と言いながらも、自身の都合で観念論的と唯物論的を適当に使い分けるということになって行くしかないのであって、学問的には二元論となって行ってしまう。
しかしながら学問というものは世界を一つの筋を通して説(解)ききるところにその真髄があるのであるから、二元論の立場は現実的にはともかくも学問的には二流である。
もう一つの道は、観念論というものは迷信や宗教に繋がるものであるとしてきれいサッパリと捨て去ってしまう道である。しかしながら、これは「産湯とともに赤子を流す。」という諺そのものの愚行、観念論的理論の中にある貴重な文化遺産の放棄でしかないと思われる。
これは、人類の歴史を視ればギリシャ・ゲルマンの偉大な観念論哲学の完成の後にもろもろの個別科学が大きく発展しているということからも、選択すべき道でないことは明白であると思われる。
では、観念論そのままでもダメ、観念論を捨て去ってもダメならばどうすれば良いのか?それの答えが第三の道である、唯物論の立場から観念論的な哲学・理論を改作していくことで、そこに含まれる貴重な文化遺産を受け継いで行くと言う道である。
これは鍼灸・東洋医学の学びで言えば、これまでの観念論的な鍼灸・東洋医学と科学的・唯物論的立場とは相容れないとして旧き鍼灸・東洋医学そのままに学び実践して行くのではなく、また、鍼灸・東洋医学の観念論的な部分を迷信・宗教的として捨て去って、西洋医学的・解剖生理的に鍼灸を学び実践して行くのでもなく、旧き鍼灸・東洋医学の現在までに伝わっている、観念論的に説明されているものを唯物論の立場から、観念論的に説かれているものは本当は如何なることなのかを、例えば「気とは何か」「経絡・経穴とは何か」「弁証八綱とは何か」「天人合一・相関とは何か」等々を、それらを自身の実技の実力とする学びとともに唯物論の立場から事実的論理的に説(解)いて行くことであると思える。
敢て言えば、昔々に対象を、人間の健康や病、それし対しての鍼灸治療等を観念論的に解釈して説明したのは、当時の人類の実力としては、まだ対象の構造に分け入る実力も無く、分け入れるだけの事実の積み重ね、解明も無かった時代には、そうとしか(観念論的にしか)考え様が無かったからであり、分かり様も無い、分かる実力が無いにもかかわらず、それでも病を治すためには何としてでも対象の構造を分かりたい、分からなければならないと必死の思いでの対象の構造に分け入っての、分け入れないでの治療とともにの、またその結果としての観念論的な理論であったのであり、決して、現在の我々が思う様な、観念論=迷信や適当なでっちあげでは無かった筈である。
そういう過去の時代性を無視してはならないのであり、対象の事実的な積み重ね、究明も進み、対象の構造に分け入る術も創り上げられて来ている現代に生きる我々は、現代という時代に鍼灸を学ぶ我々は、先人の文化遺産をただに受け継いで行くのでも無く、まして簡単に捨て去るのでも無く、現代と言う時代の視点から、その意義・意味を科学的・論理的に、唯物論の立場から解き明かして行くことで、より見事な形で鍼灸・東洋医学を再生する努力を成すべきであり、それを後生にに伝えて行くことが現代に鍼灸を学ぶ我々の義務であると思える。
以上に説いて来た観念論的理論に対する態度を一般論として、個別・具体の問題を、例えば「天人合一・相関」例えば「片手挿管」について説(解)いて行こうと思いますが、この作業は大きくは鍼灸の理論・東洋医学等理論的なものに関わる部分と鍼灸の実技・術等の実践的なものに関わる部分の二重性になっていく予定です。
現在は、駄文、拙文しか書けないのですが、これからの三年間、鍼灸・東洋医学の学びとともにしっかりと書き続けて行くことで、少しづつでもレベルアップして行く決意です。よろしくお願いします。
何故かと言えば、科学的が当たり前の現代に生きる私たちの感覚としては<観念論>すなわち迷信や宗教でしかないから、観念論的な理論、考えかたをそうすんなりと受け入れられる筈も無いし、真面目に学べる筈も無いからである。
では私たちは観念論的な理論を持つ鍼灸・東洋医学を前にしていかなる態度を取りえるのか?現在までの鍼灸・東洋医学を学んで来ている先輩たちの態度を視ると大きく二つ存在する。
一つは「鍼灸・東洋医学は科学的な考えかたと相容れないものである!」として、日常のものの考えかたとは別のものであるとして、もしくは観念論的な考えかたに馴染んで行くことで鍼灸治療の実力はついて行くのであるから本当は観念論的な考えかたの方が正しいのだ!として、観念論的なものをそのままに受け入れて鍼灸・東洋医学を学んで行くというありかたである。
もう一つのありかたは「鍼灸・東洋医学の観念論的な理論は迷信である!」として、鍼灸・東洋医学の観念論的な部分は捨て去って、西洋医学的な、解剖生理に従っての鍼灸治療を行なっていこうという行き方である。
しかしながらこの二つの態度では、鍼灸・東洋医学の中国で二千年、日本でも千五百年に及ぶ長い歴史の結果としての文化遺産をまともに受け継げないであろうということは、学問の歴史に尋ねれば明白である。
ではどうすれば良いのか?と言えば、ここでも個体発生は系統発生をくり返すべきであると思える。
学問の歴史・哲学の歴史は大きくは、(素朴な唯物論→)観念論→唯物論としての発展過程を持つ。人類の歴史としても、観念論的な文化遺産を如何に受け継ぐかという問題に直面して対処して来たという過去が存在する。
では人類はその大問題にどう対処して来たかと言えば、大きくは三つの道が存在した。一つは、あくまでそれもでの観念論の立場を守るというありかたである。しかしながらこの道は、観念の世界でだけならば可能であっても、自然科学の発展につれて現実的な世界は科学的?になって行くのであるから、日々の生活は科学の恩恵に浴して、エアコンを使い、車に乗り、テレビやパソコン、スマホを使いとなって行くのであるから、結局は、観念論の立場と言いながらも、自身の都合で観念論的と唯物論的を適当に使い分けるということになって行くしかないのであって、学問的には二元論となって行ってしまう。
しかしながら学問というものは世界を一つの筋を通して説(解)ききるところにその真髄があるのであるから、二元論の立場は現実的にはともかくも学問的には二流である。
もう一つの道は、観念論というものは迷信や宗教に繋がるものであるとしてきれいサッパリと捨て去ってしまう道である。しかしながら、これは「産湯とともに赤子を流す。」という諺そのものの愚行、観念論的理論の中にある貴重な文化遺産の放棄でしかないと思われる。
これは、人類の歴史を視ればギリシャ・ゲルマンの偉大な観念論哲学の完成の後にもろもろの個別科学が大きく発展しているということからも、選択すべき道でないことは明白であると思われる。
では、観念論そのままでもダメ、観念論を捨て去ってもダメならばどうすれば良いのか?それの答えが第三の道である、唯物論の立場から観念論的な哲学・理論を改作していくことで、そこに含まれる貴重な文化遺産を受け継いで行くと言う道である。
これは鍼灸・東洋医学の学びで言えば、これまでの観念論的な鍼灸・東洋医学と科学的・唯物論的立場とは相容れないとして旧き鍼灸・東洋医学そのままに学び実践して行くのではなく、また、鍼灸・東洋医学の観念論的な部分を迷信・宗教的として捨て去って、西洋医学的・解剖生理的に鍼灸を学び実践して行くのでもなく、旧き鍼灸・東洋医学の現在までに伝わっている、観念論的に説明されているものを唯物論の立場から、観念論的に説かれているものは本当は如何なることなのかを、例えば「気とは何か」「経絡・経穴とは何か」「弁証八綱とは何か」「天人合一・相関とは何か」等々を、それらを自身の実技の実力とする学びとともに唯物論の立場から事実的論理的に説(解)いて行くことであると思える。
敢て言えば、昔々に対象を、人間の健康や病、それし対しての鍼灸治療等を観念論的に解釈して説明したのは、当時の人類の実力としては、まだ対象の構造に分け入る実力も無く、分け入れるだけの事実の積み重ね、解明も無かった時代には、そうとしか(観念論的にしか)考え様が無かったからであり、分かり様も無い、分かる実力が無いにもかかわらず、それでも病を治すためには何としてでも対象の構造を分かりたい、分からなければならないと必死の思いでの対象の構造に分け入っての、分け入れないでの治療とともにの、またその結果としての観念論的な理論であったのであり、決して、現在の我々が思う様な、観念論=迷信や適当なでっちあげでは無かった筈である。
そういう過去の時代性を無視してはならないのであり、対象の事実的な積み重ね、究明も進み、対象の構造に分け入る術も創り上げられて来ている現代に生きる我々は、現代という時代に鍼灸を学ぶ我々は、先人の文化遺産をただに受け継いで行くのでも無く、まして簡単に捨て去るのでも無く、現代と言う時代の視点から、その意義・意味を科学的・論理的に、唯物論の立場から解き明かして行くことで、より見事な形で鍼灸・東洋医学を再生する努力を成すべきであり、それを後生にに伝えて行くことが現代に鍼灸を学ぶ我々の義務であると思える。
以上に説いて来た観念論的理論に対する態度を一般論として、個別・具体の問題を、例えば「天人合一・相関」例えば「片手挿管」について説(解)いて行こうと思いますが、この作業は大きくは鍼灸の理論・東洋医学等理論的なものに関わる部分と鍼灸の実技・術等の実践的なものに関わる部分の二重性になっていく予定です。
現在は、駄文、拙文しか書けないのですが、これからの三年間、鍼灸・東洋医学の学びとともにしっかりと書き続けて行くことで、少しづつでもレベルアップして行く決意です。よろしくお願いします。