症例検討会を立ち上げようと思う。理論的な発展は(少なくとも自身にとっては)実践を通してであるから、との思いからである。
ブログの設定で送られてくる一年前の自身のブログ記事を読んでも、一年前の自身の日記を読んでも思うことは、(現在の自身に比しての)そのレベルの高さ、アタマの冴えである。(これは一年前の記事を読んでいただければ、単なる自画自賛でないと思っていただけると......)
これは、端的には現在の自身の認識の弛みであるといっていいとは思うが、より構造的には、当時は新たな(未知の)対象である鍼灸の実践の必要性から必死に対象に問いかけてのであった、それに比べて現在は、鍼灸の実践の場は無く、また職場でも優秀な先生方が揃ってある意味シアワセいっぱいであるから、であると思える。
しかしながら、少し真面目に自身の人生を考えてみるならば、現在の平穏も一時的なものにしか過ぎないということは明らかであるのだから......そういう意味では現在の平穏な日々は古代ギリシャ哲学を生んだ時代の平穏、平和にしか過ぎないのであるから......現在の平穏に弛んでいる暇などどこにも無いのだと思える。
そう考えていくと、この時期に自身の鍼灸実践の場を、と思う。
ブログの設定で送られてくる一年前の自身のブログ記事を読んでも、一年前の自身の日記を読んでも思うことは、(現在の自身に比しての)そのレベルの高さ、アタマの冴えである。(これは一年前の記事を読んでいただければ、単なる自画自賛でないと思っていただけると......)
これは、端的には現在の自身の認識の弛みであるといっていいとは思うが、より構造的には、当時は新たな(未知の)対象である鍼灸の実践の必要性から必死に対象に問いかけてのであった、それに比べて現在は、鍼灸の実践の場は無く、また職場でも優秀な先生方が揃ってある意味シアワセいっぱいであるから、であると思える。
しかしながら、少し真面目に自身の人生を考えてみるならば、現在の平穏も一時的なものにしか過ぎないということは明らかであるのだから......そういう意味では現在の平穏な日々は古代ギリシャ哲学を生んだ時代の平穏、平和にしか過ぎないのであるから......現在の平穏に弛んでいる暇などどこにも無いのだと思える。
そう考えていくと、この時期に自身の鍼灸実践の場を、と思う。