枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

広島のYOSAKOI(よさこい) その2

2016-05-21 | ヒロシマ
          広島のよさこい祭り、「きんさいYOSAKOI」その2です。
          「踊って楽し、観て楽し、裏方も楽し、祭りから元気が貰える・・」
          と言われます。
          よさこいのメロディーが、太鼓の音が、鳴子のチャッチャッという響きが
          聞こえてくれば、そこは心浮き立つ世界です。























































































広島のYOSAKOI(よさこい) その1

2016-05-12 | ヒロシマ
          よさこいと言えば、高知に古くから伝わる「よさこい節」の替え歌と言われるこの歌

          ♪ 土佐の高知のはりやま橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい・・

          この哀愁漂う、何処か懐かしいメロディーが想い浮かびます。
          今、高知だけでなく日本全国に拡がりを見せている「よさこい祭り」 「よ  さこい踊り」
          とはどんなかかわりがあるのでしょう。

          よさこい祭りは、昭和29年高知市の地域活性化のために始まった比較的
          新しいイベント。 武政英策が、わらべ歌の一節「ヨッチョレ」と民謡「よさこい節」と
          自作の囃し「ヨイヤサノサ」を組み合わせたテーマソングと「よさこい鳴子踊り」
          を発案したことに始まるとされる。
          その後、曲の一部にオリジナルの鳴子踊りのメロディーが入ればよいとする自由さ
          を得て、各地でその自由な創作性や振り付けを競う、「よさこい連」が生まれ
          全国的な拡がりを見せているのです。

          広島のフラワーフェスティバルの一つのイベントとして行われた、「きんさいYOSAKOI」、
          参加した多くの連の、多くの人々の表情を追ってみました

















































































8月6日 ヒロシマで

2015-08-06 | ヒロシマ
          70年目のヒロシマの慰霊式に、今年もまた行ってきました。
          多くの人の祈りに出会いました。
          市長を始めとした、抑制の利いた為政者の言葉には、心あるヒロシマの人々
          の気持ちが十分には反映されていないと感じました。
          今や、核兵器だけが問題ではないのです。核エネルギーが・・ 戦争そのものが・・
          それらが齎すわざわいを遠ざける、より根源的な世の中の仕組みが問題となって
          いるのだと感じます。
          70年は、被爆者が声を挙げうる、最後の区切りの年とも言われます。
          無関心の人も、若い人も、被爆者の声を引き継ぎ、より拡大したものとして
          声を挙げて行くことを願って止みません。
          8時15分の時に黙祷する人々の後姿から、そう呼びかけられたように
          感じました。
  


 原爆ドーム











 会場で





 8時15分の黙祷

















 嵐のなかの母子像










ヒロシマの原爆被災説明板を訪ねる  その3

2014-08-10 | ヒロシマ
     15.広島瓦斯株式会社跡(爆心地より250m)






     16.日本銀行広島支店(爆心地より350m)
          「1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原爆の強烈な爆風により、外形は
          残ったものの内部は破壊され、42人の犠牲者が出た。 市内の金融機関はほとんど壊滅
          したため、日銀の内部を仕切り各銀行が窓口を設け、8月8日から業務を開始した。」














     17.袋町国民学校(現袋町小学校)(爆心地より500m)











  袋町小学校の一画に残る原爆資料館については以前に紹介しました。
          「被爆校舎の壁の中に」



     18.中国配電株式会社(爆心地より680m)
          「1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原爆の爆発と同時にこの鉄筋コンクリート
          5階建の建物は外形だけを残して破壊炎上し、内部は焼失した。
          強烈な爆風により、槍のようにとがった鉄の窓枠で頭を突き刺れたり背中をつらぬかれて
          吹っ飛ばされたりして約150人の犠牲者が出た。
          写真説明:爆風で布きれのようにちぎれた北側の雨どい 米国返還写真/
          被爆後の中国配電本社ビル 米国返還写真」








     19.広島赤十字病院(爆心地より1.6k)







          爆風で曲がった窓枠(建物一部の保存)








          この赤十字病院の白い建物には、私は特別の思いがあります。私の通った小学校
          はこの病院の近くで、歩いて通学する道で毎朝見ていましたし、「身体検査」の時
          は、曲がった窓枠のある階段を通って長い廊下を歩いたものでした。
          すべてのものがとても怖かった想いがあります。




     21.広島電鉄株式会社(爆心地より1.9k)






     22,御幸橋(爆心地より2.3k)
          「1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分広島市の中心部上空約580メートルで
          さく裂した原子爆弾がもたらした膨大な被害によって、広島市の大半は瞬時に壊滅し、
          多くの被爆者が救護を求めて南へ、北へと逃れていきました。
          この写真は、被爆後3時間を過ぎたこの地点を撮影したものです。爆心地から
          南南東約2300メートル離れていた、ここ御幸橋西詰めの警察官派出所前には
          建物疎開作業中に被爆した中学生をはじめ、多くの被爆者が群がり、わずか
          ばかりの応急手当を受けていました。」











          この御幸橋(みゆきばし)西詰めで撮られた写真は、これまで幾度となく見てきました。
          爆心地方面より上る黒い雲、蹲ったり、彷徨したりする人々の姿。
          限りなく恐ろしい記憶のよみがえりです。











ヒロシマの原爆被災説明板を訪ねる  その2

2014-08-08 | ヒロシマ
    8.本川国民学校(現本川小学校)(爆心地より350m)
          「爆心直下に近く、その被害は言語に絶するものでした。校舎は、鉄筋コンクリート造で、
          焼夷弾や通常爆弾には比較的安全な建物と思われていましたが、原爆のすさまじい
          爆風圧のため、壁はへこみ、窓枠その他の付属物は飛び散り、外部だけを残して
          完全に焼失しました。焼け果てた校舎は、被爆者の救護所にあてられ、校庭には
          死体の山が築かれました。」













          被爆当時の校舎の一部は、今も「本川小学校平和資料館」として保存されています。
          窓枠をふき飛ばされた外壁など、当時の状況の一端がうかがえます。























     (付)本川沿いの慰霊碑(爆心地より500m)
          この地は本川地区一帯の被爆死亡者数千を本川小学校で荼毘に付し、遺骨を
          埋めた場所です。(後に平和公園内の供養塔に移される。)
          市内の川沿いにはこういった慰霊碑が数多くあります。







     9.広島第二陸軍病院跡(爆心地より1k)
          「広島第二陸軍病院は、軍施設が立ち並ぶ基町地区の北西端に建っていました。
          被爆当日、病院内には、職員330人、入院患者750人がいたとされていますが、
          一発の原子爆弾により倒壊炎上し、多くの死傷者を出しました。美しい桜並木が
          入院患者をなごませた太田川の堤防には、わずかに残った職員が、ムシロやトタン
          を使って天幕を張り、臨時救護所を設置し、多くの負傷者の治療にあたりました。」









     (付)陸軍病院慰霊碑






     10.中国軍管区司令部の地下通信室(爆心地より700m)





          当時、ここで学徒動員中、辛うじて生き残った女学生の一人は、今は「被爆のかたりべ」
          としてボランティアをされているとか・・

               今も残る地下通信室の入口







     11.広島逓信病院(爆心地より1.3k)
          「鉄筋コンクリート2階建てのこの病院は、原子爆弾による爆風で、すべての窓ガラスが
          吹き飛び、近隣の弾薬庫からの類焼などにより、2階内部はほとんど全焼しました。空襲に
          備えて、被爆1カ月前に、入院患者すべてを退院させていたため、人的被害は比較的軽微でした。
          火勢が弱まった当日の夕方から、数多くの負傷者が押し寄せ、職員は医薬品や衛生材料、
          食糧の確保を行う一方、懸命な救護にあたりました。この病院は、市内に残った数少ない
          医療機関として、医療面、調査面で重要な役割を果たしました。」












     12.稲荷町電車専用橋(爆心地より1.35k)
          「京橋川に架かるこの鉄橋は、人類史上初めての原子爆弾により、爆風でレールが
          上下左右に波打ち、熱線で枕木が焼けこげました。市内電車の専用橋でしたが、下流の
          柳橋が焼け落ちたこともあり、市内中心部から郊外へ避難するため、多数の被爆者が
          この橋を渡りました。橋の下では、無数の死体が浮かぶ川に、水を求める人が殺到しました。」









      13.饒津神社(爆心地より1.8k)
          「原爆の炸裂による強烈な爆風のため、本殿や唐門などの建物が一瞬にして破壊されました。
          その直後本殿から出火し、他の建物も次々と延焼していきました。爆風により、境内の
          樹木はふき倒され、参道の石灯籠も倒されました。
          境内には、燃え盛る市内から大勢の人々が避難してきて、臨時の救護所が設けられました。」








     14.広島駅(爆心地より1.9k)