平凡社刊、別冊太陽「宮沢賢治」を借りてきて開いているが、いっぱい賢治のアルバムが載っていて、新たな発見があった。
昨年末の訪問で、大沢温泉に張られていた明治44年とする仏教講習会集合写真に映ってた夏帽の賢治は、少し幼すぎるので、2年ぐらい前の写真(12歳か13歳)ではないかと疑っていたが、別冊太陽に載っていた16歳の写真も「十分幼さをたたえている」ので、大沢温泉の集合写真の賢治は、盛岡中学3年、誕生日直前14歳の8月に撮られた写真に間違いがないと確信した。賢治は、中学はじめのころまでは、背が低く、童顔だったことが分かる。
賢治は、盛岡中学を卒業した18歳のときに島地の編著になる「漢和対照妙法蓮華経」に深く感動し、法華経に傾斜する契機ともなっており、14歳夏の大沢温泉での島地との出会いは運命的なものであろう。
この別冊太陽に載っていた賢治のアルバムで、最も好きになったのは、花巻農学校職員室での1枚である。多分賢治27、8歳、1923年(大正12年ころ)の写真だろう。最愛の妹トシを亡くした1,2年あとだろうが、賢治の生涯を照らして、「春と修羅」や「注文の多い料理店」を世に出したころの一番充実していたころの写真であり、自信に満ちて、溌溂として、やや微笑んで、賢治の生涯のうち最も屈託のない時間を過ごしているようだ。それにどうだろう、他の同僚たちも知的で紳士的ないでたち。当時の教師という職業の風格と知的レベルの高さが感じ取れる貴重な写真だ。
賢治は、法華経に出会った18歳のころから、自らを「修羅」として自覚しながら、詩人、童話作家、教師、農民芸術家、砕石工場技師(セールスマン)とういう職業や活動などを通して、この世に浄土=「春」をもたらす「菩薩の道」をめざししたのだろうが、肺疾患や当時の社会・文化情勢のため、道半ばに倒れたかのようでもある。しかし、「ソウイフモノニワタシハナリタイ」と望みながら、ナカナカナレナイことに煩悶しながら生きることが、すでに「菩薩の道」を歩んでいることにならないだろうか。「永久の未完成それが完成である」なのだ。
幼少期から「晩年」まで賢治の残された賢治の肖像を見るたびに、オイラは「菩薩」の姿を感じるのだが、少し偏愛しすぎだろうか。
大沢温泉に張られていた、1911年(明治44年)の島地大等を講師とした仏教講習会集合写真
誕生日前の14歳
1913年(大正2)2月 誕生日前の16歳の写真 「別冊太陽」から
「別冊太陽」から
北帰行2019 4月9日、10日 滋賀県長浜市 余呉湖 向源寺 石道寺 鶏足寺
琵琶湖の北端に近い余呉湖の近くにキャンプをし、ようやく桜が開花した余呉湖を周遊し、翌日は、井上靖さんの「星と祭り」や白洲正子さんの著作で紹介されていた向源寺(渡岸寺)や石道寺、足を延ばして鶏足寺(己高閣)の十一面観音様を参拝、己高閣会館のお湯に浸かってさっぱりとし、琵琶湖を遠く眺めてながら、次の旅に向かった。
余呉湖
余呉湖
木之本周辺の河畔
湖北の民家
向源寺 十一面観音(国宝) 肢体、お顔立ち、宝冠のような十一の菩薩、バランスが整い完璧なお姿だ。
石道寺 十一面観音(重文) 「星と祭り」が言うように美人だ。
鶏足寺 十一面観音(重文) 飾り気のないお姿で美しい。
奈良時代から、庶民に信仰されてきた十一面観音菩薩。頭に十一の顔を持ち、ヒトの行いを諫め、怒り、笑い、慈しむ。観音菩薩様がお姿を変えたのだという。天台系の流れをくむとのことだが、叡山のふもとだからか。戦国時代は、織田、浅井の合戦で織田側の焼き討ちに遭い寺院が消失するなか、近隣の民が、あるいは土に埋め、あるいは水に沈めながら守り抜いてきたのだという。
〇 みずうみに さくらなのはな またさいて ぼさつのみちの はるけかるかな
湖水に 桜菜の花 また咲いて 菩薩の道の 遥けかるかな