川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「君が代」の強制と裁判

2010-03-06 10:27:21 | こどもたち 学校 教育
 僕が卒業式に出たのは2003年3月が最後です。「嘱託」として働いていた最後の5年間のうち3回は卒業式の日を出勤日とせず、出席を回避していました(1回は手術後の休職中)。

 東京の公立学校では2004年3月の卒業式から君が代の斉唱を拒否すれば懲戒処分が下されるようになり、僕のような「嘱託」は4月から再雇用を解かれ、職場から追放されるようになったのです。

 僕は卒業式という場で君が代を「職務命令」で強制されて歌うことはできません。それでいて、学校での仕事は許される限りやりたい。やむを得ず、当日を勤務がない日ということにしたのです。

 少なくとも一年間、授業を受けてくれた卒業生たちの門出を祝いたい気持ちは人並みにあります。僕が働いていた山吹高校には不登校を体験した生徒も多く、「卒業」の重みは格別です。「よくがんばったねえ」と言ってやりたいのは誰もが同じでしょう。

 僕の授業を受けた生徒たちの中に文化祭で「君が代」について発表した人たちもいました。まじめに考えれば「強制」に疑問が出てくるのは自然なことです。校長との話し合いもしたのではなかったかと思います。

 そういう人たちの卒業式であっても僕は勤務がない日としました。教員としては「失格」といわれても仕方ありません。それでもやむを得ない選択だと考えたのです。

 2月23日に東京高裁において「君が代」解雇裁判の控訴審判決(奥田隆文裁判長)がありました。

 04年3月の卒業式の際、「君が代」斉唱を拒否したため、すでに決まっていた「嘱託」を一方的に解雇され4月から職場を追放された人々が、その解雇が無効だと訴えていた裁判です。
 当事者の方々は僕よりは二つ若い人々で現職最後の卒業式に臨み「国歌斉唱」時にそれを拒否して着席したのです。
 
  一審に続いて訴えは却下されましたが「判決文要旨」には次のようなことが書いてあります。
 

 「本件不起立行為は、控訴人らにとっては、その思想及び良心に基づく行為であるが、一般的には、それらの思想ないし良心そのものと不可分に結びつくものではなく、職務命令に基づき他の参加者とともに国旗に向かって起立し、国家を斉唱するという外部行為を求めることが、直ちにその思想及び良心自体を否定することになるものではない。」
 「他の参加者とともに国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するという外部的行為を求めることが、国旗及び国歌に関する多数な思想のうちの特定の思想を有することを外部的に表明させることにはならず、特定の思想を強制又は禁止し、特定の思想の有無について告白を強要するものでもないから、憲法19条に反しない。」

 裁判官の言っていることの意味がわかりますか。僕にはさっぱりです。「文学部社会科学科法律政治学専攻」というところを卒業したことにはなっていますが授業にはほとんど出なかった罰があたったのでしょうか。

 こんな判決を書ける裁判官に訴えるしかない人々の思いとはどんなものでしょう。上告してさらに闘うといわれます。

 3月に入ってから懲戒処分を受けたことがある現職の人たちが新たに訴えを起こしました。これで裁判を起こした被処分者は700人を超えるということです。

 僕の古い友人が記者会見で思いを述べています。videoのところをクリックして視聴してみてください。

http://video.labornetjp.org/Members/YUMOTO/videos/3jisosyou.wmv/view


 日本国憲法第76条3項にはこう書いてあります。

「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」

 最高裁判所の意思(判決)に忠実なあまり意味不明の言葉が並ぶ「判決」ばかりが目につきます。これらの裁判を担う裁判官に憲法76条をよく読んで自分の言葉で判決文を書いてもらいたいものです。

 虚しいことを書いてしまいました。

 検察の闇に迫る闘いがこのところ注視されるようになってきましたが司法の闇はいまだ深く手のつけようがないくらいです。

 どうしたら司法を民主主義のルールの下にコントロールできるか、新政権を誕生させた機会に取り組まなければならない喫緊の課題です。