3月29日(月)晴れ
蒲田での城戸久枝さんの講演が2時からだ。少し時間があったので二つ手前の大井町駅で降りて従兄の家あたりまで歩いてみることにした。
1960年2月末に東京教育大学の受験のため大井の伯父宅に世話になって以来50年が経った。
夜行の急行で朝方、品川に着いて兄に出迎えてもらった。あれから半世紀が経ったのだ。大井町駅前の「阪急」はとうの昔になくなっているが街のたたずまいは余り変わっていない。
三つ叉通りから滝王子通りへはいる。大井警察の建物は新しくなったが位置は昔のままのようだ。
滝王子商店街http://tokyo-syoutengai.seesaa.net/article/104461771.html
伊藤中学校があったあたりに「伊藤学園」いう標識があった。学校改革で区立の小中一貫校になったようだ。
伊藤学園http://www1.cts.ne.jp/~itogaku/
品川区は学校選択制などの「学校改革」の先陣を切った。そのリーダーは若月秀夫という人だがこの人が都教委在職中に少しやり合ったことがある。
あくの強い「やり手」だ。この教育長の下でどんな学校が生まれているのだろうか?
若月秀夫教育長http://www.manabinoba.com/index.cfm/4,2768,81,html
ぼくの生徒だったIくんが品川区の別の小中一貫校につとめている事を思い出す。そろそろ学校にも慣れてきた頃だろう。(そのうちに訪ねてみよう)。
原町の従兄の家の近くまで来たところで時間切れ。ちょうど来たタクシーを捕まえて大井町駅へ。「光学通り」も昔の面影を残しているように見えた。
ちょっとした思いつきで大井に降りてみたので従兄に声をかけることも出来なかった。ごめんなさい。
1960年、ぼくは思いがけなく浪人することになり、8月末から61年3月まで伯父の家に世話になった。「浅沼暗殺」の衝撃でダウンするなど苦しい時期だったといえるだろう。
ぼくの関東での生活の足場を提供してくれた伯父夫婦はその後郷里の室戸岬に帰り、平穏な老後を送った。たまに訪ねる我が家のこどもたちをかわいがってくれた。こどもたちは「めじろのおじいちゃん」とよんでいた。
とりとめもないことを書いたが、伯父たちに世話になった地を今度はゆっくりと訪ねてみたいものだ。
2時から城戸さんのお話。司会者が父上・城戸幹さんの「人生」を聞くというものでぼくにはおなじみの話だった。父と子が書いた二冊の本を読んだり、TV番組を2回も見ているからだ。ぼくとしては久枝さん自身の歩みや考えをもっと聞きたかったように思う。
移動教室の夜、どんな風に交流したらよいか、少しは考えておかなければならない。
久枝さんはどこにでもいる、どちらかというと地味な感じのする女性かな。ざっくばらんで気取らない。
父上と同じような運命を生きてきた人々との交流だ。上手くいかないはずはないが…。
移動教室の案内を手渡すことが出来てこの日の任務は無事終了。足が冷えて咳が出てきたので早めに帰途につく。
蒲田での城戸久枝さんの講演が2時からだ。少し時間があったので二つ手前の大井町駅で降りて従兄の家あたりまで歩いてみることにした。
1960年2月末に東京教育大学の受験のため大井の伯父宅に世話になって以来50年が経った。
夜行の急行で朝方、品川に着いて兄に出迎えてもらった。あれから半世紀が経ったのだ。大井町駅前の「阪急」はとうの昔になくなっているが街のたたずまいは余り変わっていない。
三つ叉通りから滝王子通りへはいる。大井警察の建物は新しくなったが位置は昔のままのようだ。
滝王子商店街http://tokyo-syoutengai.seesaa.net/article/104461771.html
伊藤中学校があったあたりに「伊藤学園」いう標識があった。学校改革で区立の小中一貫校になったようだ。
伊藤学園http://www1.cts.ne.jp/~itogaku/
品川区は学校選択制などの「学校改革」の先陣を切った。そのリーダーは若月秀夫という人だがこの人が都教委在職中に少しやり合ったことがある。
あくの強い「やり手」だ。この教育長の下でどんな学校が生まれているのだろうか?
若月秀夫教育長http://www.manabinoba.com/index.cfm/4,2768,81,html
ぼくの生徒だったIくんが品川区の別の小中一貫校につとめている事を思い出す。そろそろ学校にも慣れてきた頃だろう。(そのうちに訪ねてみよう)。
原町の従兄の家の近くまで来たところで時間切れ。ちょうど来たタクシーを捕まえて大井町駅へ。「光学通り」も昔の面影を残しているように見えた。
ちょっとした思いつきで大井に降りてみたので従兄に声をかけることも出来なかった。ごめんなさい。
1960年、ぼくは思いがけなく浪人することになり、8月末から61年3月まで伯父の家に世話になった。「浅沼暗殺」の衝撃でダウンするなど苦しい時期だったといえるだろう。
ぼくの関東での生活の足場を提供してくれた伯父夫婦はその後郷里の室戸岬に帰り、平穏な老後を送った。たまに訪ねる我が家のこどもたちをかわいがってくれた。こどもたちは「めじろのおじいちゃん」とよんでいた。
とりとめもないことを書いたが、伯父たちに世話になった地を今度はゆっくりと訪ねてみたいものだ。
2時から城戸さんのお話。司会者が父上・城戸幹さんの「人生」を聞くというものでぼくにはおなじみの話だった。父と子が書いた二冊の本を読んだり、TV番組を2回も見ているからだ。ぼくとしては久枝さん自身の歩みや考えをもっと聞きたかったように思う。
移動教室の夜、どんな風に交流したらよいか、少しは考えておかなければならない。
久枝さんはどこにでもいる、どちらかというと地味な感じのする女性かな。ざっくばらんで気取らない。
父上と同じような運命を生きてきた人々との交流だ。上手くいかないはずはないが…。
移動教室の案内を手渡すことが出来てこの日の任務は無事終了。足が冷えて咳が出てきたので早めに帰途につく。