《稲荷ずし》 また、食べ物の話。
櫂くんは、日本の食べ物では何が好き?
「ぼくは、稲荷ずしが大好きです。」
「わたくしは稲荷ずしは大嫌いです」。そばで聞いていたおばあちゃんが、に
べもなく言い切る。「北朝鮮にいる間に大嫌いになりました。」
北朝鮮では、日本からの帰国者が初めて稲荷ずしを作ったそうだ。稲荷ずしを
作るといっても、向こうでは、大豆を手に入れて油揚げから自分で作らなくては
ならない。油揚げというのは、ただ薄く切った豆腐を押して水を切って油で揚げ
ればできるというものではない。本当の油揚げを作るには、豆腐のときよりも濃
い豆乳が必要になる。でもそこまではできないから、豆腐を作る要領でなんとか
油揚げらしきものを作って、甘辛く煮た。そうして作った稲荷ずしを闇市に持っ
ていったら、飛ぶように売れたという。そのうちに現地の人たち(日本からの帰
国者は、もともと北朝鮮にいる同民族をこう呼んでいる)も真似をして、稲荷ず
しを作って売るようになった。闇市のあっちでもこっちでも稲荷ずしを売ってい
る。そこにお腹をへらした人たちが群がってくる。
「闇市の周りには、餓死した人たちの死体がごろごろしているんです。わたく
しは、稲荷ずしというといまだに、匂いを嗅ぐだけで、あの飢えた人たちの顔や
餓死者の情景を思い出してしまうのです。だから、稲荷ずしはもう、匂いを嗅ぐ
のも嫌なんです。」
そこまで言われたものだから、川越祭りのご馳走に稲荷ずしを作ってもてなす
というわけにいかなくなっちゃった。あたしの得意料理なんだけど。櫂くんごめ
んね。