《韓国映画「クロッシング」の話》 結核を患う妻に薬を買ってやりたいと、北朝鮮を脱出して韓国に渡った男。帰
りを待ちきれずに死んでいく妻。一人残された息子はコッチェビになりながらも
父のあとを追って国境の河を渡る。脱北者たちからの聞き書きを元に韓国で製作
された映画「クロッシング」を観たあとで、夢子さんとした話。
「実際はあんな生易しいものではないのよ。でも、映画としてはよくできてい
たと思う。あんまり苛酷な現実をその通りに描くと、かえって信じてもらえなく
なるから、あのくらいにしておいてよかったのだと思う。」
「クロッシング」は、各国で日本よりも一年以上早く公開されていて、韓国で
も大評判になっていた映画だ。夢子さんは、「現実をオブラートにくるんだから
受け入れられた」と言う。北朝鮮の状況は、それほど想像を絶するものなのだと 。
以前、韓国で、脱北者たちが向こうでの生活を知ってもらおうと、それぞれが
持ってきたものを集めて展示会を開いたそうだ。そのときノートや鉛筆などを見
た多くの市民が、「これは北朝鮮を悪宣伝するヤラセじゃないか」という受け止
め方をして、事実として認めようとしなかったのだそうだ。
それはどんなノートや鉛筆だったのか。日本でも30~40年前にはまだ、茶色い
ような色の「わら半紙」というものがあった。さらに「ザラ紙」といってもっと
質の悪いわら半紙もあった。北朝鮮で子どもや学生たちが使っているノートの紙
は、そういう「ザラ紙」で、消しゴムを使ったらすぐにくしゃくしゃになる。鉛
筆も、芯の黒鉛の質が悪くて折れやすく、おまけに紙にひっかかるので、ノート
はすぐに破れてしまうのだと言う。韓国で展示されたノートや鉛筆も、まさにそ
ういうものだったそうだ。
60年代、70年代、韓国の人々の暮らしは貧しかった。当時は、北朝鮮のほうが
豊かな暮らしをしていると宣伝されていた。その実態はどうであったのか、あた
しにはわからないが、両者を比べれば確かに、当時は北朝鮮のほうが経済力があ
ったといわれているし、あたしもそう教わってきた。韓国の市民たちは、自分た
ちの40~50年昔と引きくらべて、目の前にあるものがあまりにも粗末なものだっ
たので「うそだあ~」と思ってしまったのかもしれない。
あのね夢子さん、とまた、あたしのいつもの「素朴な」質問。
「みんながご馳走を持ち寄って河原で野遊会をしているシーンが最後に流れて
いったでしょ。お母さんがいて、死んでしまった仲良しの女の子も、お母さんに
栄養を摂らせるために食べられてしまった犬のシロもいた。あれは少年の思い出
? それとも砂漠でひとり息を引き取っていった少年が最後に見た夢? 百万人
以上の餓死者が出るような食糧事情のとき、村の人たちがあんなふうにご馳走を
持ち寄って野遊会を開けるものなの?」
「あのシーンは、観る人がそれぞれの受け取り方をすればいいわ。でもね」と
、夢子さん。
「でも、ほんとにあんなふうにやっているのよ。どんなに食料が乏しくても、
一握りずつ食べ物を脇に取り除けて蓄えておくの。そうして春と夏の野遊会にで
きるだけのご馳走を作って、みんなで楽しむの。朝鮮の人たちは楽しむことに対
してとても貪欲なのよ。」