川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

私が聞いた北朝鮮の暮らし⑯《韓国映画「クロッシング」の話》 鈴木倫子

2011-02-06 07:58:19 | 韓国・北朝鮮
《韓国映画「クロッシング」の話》

 結核を患う妻に薬を買ってやりたいと、北朝鮮を脱出して韓国に渡った男。帰

りを待ちきれずに死んでいく妻。一人残された息子はコッチェビになりながらも

父のあとを追って国境の河を渡る。脱北者たちからの聞き書きを元に韓国で製作

された映画「クロッシング」を観たあとで、夢子さんとした話。
 
 「実際はあんな生易しいものではないのよ。でも、映画としてはよくできてい

たと思う。あんまり苛酷な現実をその通りに描くと、かえって信じてもらえなく

なるから、あのくらいにしておいてよかったのだと思う。」
 
 「クロッシング」は、各国で日本よりも一年以上早く公開されていて、韓国で

も大評判になっていた映画だ。夢子さんは、「現実をオブラートにくるんだから

受け入れられた」と言う。北朝鮮の状況は、それほど想像を絶するものなのだと
。
 
 以前、韓国で、脱北者たちが向こうでの生活を知ってもらおうと、それぞれが

持ってきたものを集めて展示会を開いたそうだ。そのときノートや鉛筆などを見

た多くの市民が、「これは北朝鮮を悪宣伝するヤラセじゃないか」という受け止

め方をして、事実として認めようとしなかったのだそうだ。
 
 それはどんなノートや鉛筆だったのか。日本でも30~40年前にはまだ、茶色い

ような色の「わら半紙」というものがあった。さらに「ザラ紙」といってもっと

質の悪いわら半紙もあった。北朝鮮で子どもや学生たちが使っているノートの紙

は、そういう「ザラ紙」で、消しゴムを使ったらすぐにくしゃくしゃになる。鉛

筆も、芯の黒鉛の質が悪くて折れやすく、おまけに紙にひっかかるので、ノート

はすぐに破れてしまうのだと言う。韓国で展示されたノートや鉛筆も、まさにそ

ういうものだったそうだ。
 
 60年代、70年代、韓国の人々の暮らしは貧しかった。当時は、北朝鮮のほうが

豊かな暮らしをしていると宣伝されていた。その実態はどうであったのか、あた

しにはわからないが、両者を比べれば確かに、当時は北朝鮮のほうが経済力があ

ったといわれているし、あたしもそう教わってきた。韓国の市民たちは、自分た

ちの40~50年昔と引きくらべて、目の前にあるものがあまりにも粗末なものだっ

たので「うそだあ~」と思ってしまったのかもしれない。

 
 あのね夢子さん、とまた、あたしのいつもの「素朴な」質問。
 
「みんながご馳走を持ち寄って河原で野遊会をしているシーンが最後に流れて

いったでしょ。お母さんがいて、死んでしまった仲良しの女の子も、お母さんに

栄養を摂らせるために食べられてしまった犬のシロもいた。あれは少年の思い出

? それとも砂漠でひとり息を引き取っていった少年が最後に見た夢? 百万人

以上の餓死者が出るような食糧事情のとき、村の人たちがあんなふうにご馳走を

持ち寄って野遊会を開けるものなの?」
 
 「あのシーンは、観る人がそれぞれの受け取り方をすればいいわ。でもね」と

、夢子さん。
 
 「でも、ほんとにあんなふうにやっているのよ。どんなに食料が乏しくても、

一握りずつ食べ物を脇に取り除けて蓄えておくの。そうして春と夏の野遊会にで

きるだけのご馳走を作って、みんなで楽しむの。朝鮮の人たちは楽しむことに対

してとても貪欲なのよ。」