4月25日(月)晴れ
永国寺(耳塚)~熊本県人吉駅8・51~(JR肥薩線)~10・15八代駅10・32~(JR鹿児島本線)~12・14荒尾駅12・37
~13・17佐賀県鳥栖駅14・22~(JR長崎本線・佐世保線)~15・32永尾駅(武雄市山内町)~山下さん宅(泊)
人吉にさよならして佐賀県武雄市の山下さんを訪ねる日だ。賀明・紀子夫妻が駅まで送ってくれる途中で永国寺に寄り、「耳塚」を見せてくれた。昔、京都の豊国寺の巨大な耳塚を見たことがある。目的は変わらないようだ。永国寺●http://susono.jugem.jp/?eid=1156
人吉発の各駅停車に乗ってお二人と別れ、球磨川の美しい風景を眺めながら八代に向かった。満ち足りた思いに浸った。
お二人は4日間も生活丸ごと私たちにつきあってくださった。40余年前の大島での生活があって、夢のようなこの日々が実現できたのだが、変わることのないお二人のおおらかな人柄の御陰だ。今度はいつどこでお会いできるかな。川越にも来てくれるといいが…。
八代・荒尾・鳥栖と鈍行を乗り継ぐ。鳥栖では街に出てみたがショッピングモールのほかには何もなかった。帰ってきてから孫正義さんの出身地だと知った。
吉野ヶ里、佐賀、武雄温泉と過ぎるといよいよ佐世保線「永尾駅」だ。3時32分定刻についた。下りる人はだれもいない。跨線橋を渡ると山下さんが出迎えに来てくれていた。高校生時代はここから学校に通ったが何十年も乗り降りしたことはないらしい。無人駅になった今も通学の生徒には利用されているのか自転車が並んでいた。
永尾駅●http://www.geocities.jp/shindaisakura/nagaoeki.html
懐かしい風景が目に入ってきた。犬走・岡方の山下家。僕らは三度目だ。60になった01年夏、カツヨシさんと一緒に世話になった。あの時は弘子夫人が笑顔満面で出迎えてくれたものだ。
次は06年夏、ぼくは左肺摘出後の抗ガン剤投与が終わったばかりだった。弘子さんが同じ病で闘病中だと聞き、天草を訪ねる旅の一日目にお見舞いに寄った。今度は蛍の頃に来るからねといって別れた。家の前まで出て僕らの車が見えなくなるまで手を振ってくれた。
それから一年も経たない07年5月、危篤だと聞いて嬉野の病院を見舞った。蛍の季節だったかもしれないが一緒に見ることはもはや出来なかった。これが別れの時になった。
●「弘子さんを見舞う」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20070526
旅装を解いたあと、丘の上の弘子さんの墓に詣でた。立派な納骨堂の上に「倶会一処(くえいっしょ)」と大きな文字が刻まれている。脇に植えられたトキワマンサクは花盛り。
墓前に二人並んで妻に写真を撮ってもらった。後ろには連綿と続く先祖の墓、目の前には村の風景が広がっている。山下さんはこの4年、よく頑張ったなあと思った。寂しさに耐えかねたときには一人ここを訪ねたのか。
墓参りのあと岡方の村を案内してもらった。田んぼを隔てた反対側の丘の上に天満宮があった。徐福伝説と関わりのある祠や逆立ちした猿が彫られた珍しい灯籠がある。お父さんが案内板に由来を書かれていた。
犬走天満宮●http://www.densetsu-tobira.com/jofuku/saga.html
手入れの行き届いた山下家の庭の一角に小さな銀杏(いちょう)の木があった。ソフト部の指導時に池袋商高の校庭で拾った銀杏(ぎんなん)が育ったものだという。池商はフランス人学校に変身中だが銀杏の木はどうなったか?仮に伐られてしまったとしても池商の生徒たちをこよなく愛した「山下先生」の九州の家の庭に2世が生き続けているのだと思った。
夜、病院勤めのTくんが帰ってきて心づくしのご馳走をしてくれた。僕らが会うのは遠い昔、一緒に対馬を訪ねた時以来だ。その時は小学校の低学年だった。年月を隔ててもお母さん似の笑顔に変わりはなかった。
遅くまで美酒をかわした。庭からもいできたハッサクをぼくがむさぼるように食べるのを見て、台所に立った山下さんは実だけを丁寧に採ってお皿に盛って食べさせてくれた。
田んぼの畔沿いに連なる蛍の話が出た。何時か、本当に見てみたいものだ。