4月27日(水)曇り時々雨
伊万里~波多津~唐津市肥前町・大鶴炭坑跡「にあんちゃんの里碑」~法海寺「鶴の岩屋」~光明寺「大鶴鉱業所殉職者之
碑」~鷹島肥前大橋~松浦市歴史民俗資料館(元寇・海底遺物)~高串温泉~川南造船所跡
岩本くんは大学の新聞部の後輩だ。佐賀県伊万里の出身だが、長崎県の高校で働いてこられた。80年代の初めに「在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」が対馬の旅をしたときに案内をしてもらった。その時には山下さんもぼくも家族ぐるみで参加した。30年も昔のことだ。
今回の旅の趣旨を話すと「妻も話し好きで楽しみにしている」と言ってくれたので気分が大きくなり、お会いしたこともない奥さんだったが二晩も厄介になることにした。
砂恵子さんは島原の出身の数学の先生だった。東京で学生生活のあと、郷里の高校で働き、岩本くんと出会った。お子さんたちは皆、関東にすみ、定年退職後はお二人で旅行やダンスを楽しんでおられるという。
夕食時には岩本くんが生月島までいって釣ってきた鯛を刺身や煮魚にしてご馳走してくれた。27日は砂恵子さんも一緒に「にあんちゃんの里」や鷹島を案内してくれるというので気分が高揚する。
①大鶴炭坑跡「にあんちゃんの里」
10年前見つけられなかったところにようやく来た。仮屋湾のどん詰まりに軌道跡かと思われるものが見えるほかは炭坑跡をしのばせる雰囲気はなにもない。それでもこの記念碑が出来たおかげで大鶴炭坑とそこで生きた人々の思いが心ある人には伝えられていくきっかけにはなるだろう。
●杵島炭坑大鶴鉱業所http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/kijimatankou-01.html
北林谷栄さんに続いて長門裕之さんも亡くなった。子どもの頃に大きな影響を与えてくれた映画「にあんちゃん」。これからも子どもたちに見せてくれる大人がいるといいな。ぼくと同じように日記も読みたくなる子がいるかもしれない。
●映画「にあんちゃん」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/b055ddb3710122875574cf96600ffe72
安本末子さんがここを訪ねたという記事があった。元気で日立市に住んでおられるとか。記録映画「在日」には娘さんがここを訪ねた場面があるという。気になっていた情報である。もう10年以上前のことばかりだが紹介しておきます。(11・5・27)
『にあんちゃん』の原作者42年ぶり故郷へ
(1999年1月27日・西日本新聞)
旧杵島炭鉱・大鶴鉱業所(現佐賀県肥前町)の炭鉱を舞台に両親を亡くした在日韓国人の少女らが兄らと懸命に生きる姿を描いたベストセラー「にあんちゃん」の原作者・三村末子さん(59歳、旧姓安本、茨城県在住)が42年ぶりに同町に帰省。町内での小・中学校の同窓会に出席した。
席上絶版状態の「にあんちゃん」を同窓生らが自費出版する計画も発表され、三村さんを感激させた。「にあんちゃん」は1953から1954年に書かれた三村末子さん(安本末子さん)の日記で1958年に光文社から出版。今村昌平監督で映画化。
三村さんは中二で神戸に引越し、以降、一度も同町を訪れることもなかった。今回は還暦記念の同窓会とのことで懐かしい故郷へ。同級生の
山口駿一同町収入役らの案内で鉱業所跡や一昨年、同級生たちが建てた記念碑を見て回った。
三村さんは『家並みや道路は変わりましたが友人への懐かしさは変わりません。復刊で、貧しくとも助け合った時代の良さが伝われば』と話していた。
●「にあんちゃん」その後 長女・玲子さんの大鶴訪問
http://madonna-elegance.at.webry.info/201010/article_22.html
②鶴の岩屋
「にあんちゃんの里」の碑のすぐ上の「法海寺」(無住)の本堂の中にある岩屋。こんな磨崖仏(まがいぶつ)が彫られている。山下さんは岸岳落城後、落ち延びてきた波多三河守の家臣たちが彫ったと教えてくれたがそのような説明はここにはなかった。
出典●http://www.geolocation.ws/v/P/25497783/-/en
③光明寺 「大鶴鉱業所殉職者之碑」
肥前町入野の光明寺に大鶴炭坑で犠牲になった朝鮮人の慰霊碑があるというので連れて行ってもらった。住職の娘さんが遠くからご苦労様といってお茶菓子の接待をしてくれた。
大鶴炭坑の労働者の大半は朝鮮人だったという。90年に建てられた碑には子どもの名前も刻まれている。安本さん一家と同じような家族がけっこう沢山住んでいたのだろうか。関連記事にはこうある。
「肥前町入野の光明寺の裏手には、閉山時の一九五七年に建てられた『大鶴礦業所殉職者之碑』がある。この碑の横には一九九〇年に建てられた朝鮮人死亡者を追悼する『韓国人傷病没者之霊位』という碑があり、一九四五年八月までの朝鮮人死者五一人分の戒名、死亡年月日、氏名、年齢が刻まれている。寺には死者の名簿があり、遺骨の所在について聞くと、日本人のものとともに合葬されているという。
長崎在日朝鮮人の人権を守る会の『原爆と朝鮮人』六の調査によれば、大鶴炭鉱での死者の遺骨は光明寺の納骨堂に置かれていたが、「大鶴礦業所殉職者之碑」が建てられると、その内部に収められた。しかし、三〇年の歳月を経て、碑の内部に雨水が入り込み、木やスフ、厚紙で作られた容器は破損し、遺骨が識別できなくなり、『韓国人傷病没者之霊位』の碑を建立したときに、合わせて納骨したという。
大鶴炭鉱の朝鮮人名簿は、厚生省勤労局調査の佐賀県名簿には含まれていない。追悼碑には名前が刻まれたが、大鶴炭鉱の死亡者の連絡先については判明していない。すでに閉山から五〇年が過ぎたが、どこかに手がかりはないものだろうか。(二〇一〇年六月)」
●筑豊・佐賀の追悼碑 http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/kyosei/1006tikuhousaga.html
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朝鮮人の無縁仏が眠る慰霊碑には、川原浩心住職が毎朝、花と水を供え、手を合わせる=唐津市肥前町入野の光明寺(「朝日新聞」佐賀版2010年08月16日)
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